疎開の学童、琉舞披露 空手、演芸会も 厳しい生活下、文化親しむ 熊本へ引率教員 故安村さんつづる


社会
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疎開引率教員だった父・安村良旦さんが残した手記を手にする秀夫さん=8日、那覇市

 戦中から戦後にかけて、熊本県阿蘇市の山村にある「遊雀(ゆうじゃく)国民学校」(現阿蘇市立波野小)に疎開した那覇市首里の学童らを引率した教員が残した手記が保管されていることが17日までに分かった。手記を残したのは首里第二国民学校(現城西小)の教員だった故・安村良旦(りょうたん)さん(1911年生まれ)。学童が厳しい生活を乗り切り、疎開先の村民に空手や琉球舞踊を披露したことなども記されている。

 手記は息子の安村秀夫さん(71)=那覇市=が自宅で保管してきた。秀夫さんは、歴史を継承する大切さを説いている。

 良旦さんは「対馬丸」と共に那覇を出港した「暁空丸」で疎開学童らと九州へ向かい、44年夏から46年10月まで熊本県の阿蘇で暮らした。疎開当初に暮らしていた温泉街で空襲を受けるようになると、阿蘇の中でもさらに安全と思われる山村へ移動した。この再疎開先が遊雀村(現熊本県阿蘇市波野)だった。

手記の中で、疎開から帰る前に行われた「お別れ演芸会プログラム」について記した部分

 全34ページの手記は「帰還に臨みて」と題され、学童54人の氏名一覧や写真がある。松の木とみられる大木の前でポーズを取り、幼いながらもりりしい表情を残す。沖縄に帰る直前の46年9月16日午前9時から開催した「お別れ演芸会プログラム」と「演芸会ご案内」も貼られている。

 プログラムによると、疎開先に近い国民学校に通っていた沖縄出身の学童・阿波連蘭子さんが琉球舞踊を披露した。出演者には良旦さんの妻でバレリーナの安村よし(芸名・南条みよし)さんの名前もある。秀夫さんは「朝からよくこれだけのものをやったものだと思う。」と話す。

 阿蘇の楢木野(ならぎの)国民学校に学童として疎開した経験があり、歴史研究を続けている那覇市の玉城盛松さん(84)は「演芸会は間違いなく2、3回開かれていた。(隣の)遊雀は文化への理解が高かった」と語る。

 秀夫さんは3月、手記を手に波野村を旅した。遊雀小は廃校となっていたが、合併後の波野小学校(阿蘇市波野)の図書室には今でも沖縄コーナーが設けられ、長い交流の跡が残っていた。

 秀夫さんは「平和学習が今に至るまで行われていたことを知った。戦争は双方に悲しみをもたらす。語り継いでいかないといけない」と継承の大切さを語った。

(増田健太)