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ハングリー精神を培った日々…神山操さん、恩師との出会い支えに…玉寄哲永さん 沖縄工業高校(2)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 アバター画像 琉球新報社
安謝時代の沖縄工業高校の校舎(「沖工百周年記念誌」より)

 沖縄工業は1902年、首里区立工業徒弟学校として首里で開校した。21年に県立工業学校となり、沖縄戦で校舎は全壊。戦後の48年、琉球民政府立工業高校として那覇市安謝で新たにスタートする。52年、米軍の住宅建設のため校舎が現在の那覇市松川に移され、その作業に生徒も駆り出された。

神山 操氏

 連合沖縄初代会長の神山操(88)は3期(電気科)。国頭村安田で生まれ、6歳で父の出稼ぎ先の南洋パラオ・ペリリュー島に渡った。「安田に似た自然豊かなところで、野生の鶏を捕まえて遊んだ」

 数年して南洋の戦況が悪化。父を残し、神山は母やきょうだいと沖縄に引き揚げた。終戦後、父は骨となって南洋から帰還した。

 技術を身に付け早く働くため、受験の狭き門をくぐり沖縄工業に入学した。当時沖縄唯一だった工業高校には、奄美から与那国まで各地から生徒が集まった。寮に入り1、2年は那覇市安謝の校舎に通った。松川への移転で「3年時はほとんど引っ越し作業に忙殺され、勉強はおろそかになりがちだった」と話す。

 寮では雨が降ると水浸しになり、長靴が欠かせなかった。上下関係は厳しく、夜中に3年生による「不意打ちのたたき起こし」があり、気合を入れられた。

 卒業後はキャンプ瑞慶覧にあった米陸軍ポストエンジニア(施設営繕局)に勤務した。「米国人の賃金が10とすると、フィリピン人が5、沖縄の人は1くらいだった」。トイレも分けられ、沖縄の人は「土着の」を意味する「インディジネス」と表示された。「土人の扱いで、まさに奴隷的だった」

 66年、全軍労普天間マリン支部結成に参加し、組合活動に関わるようになる。その後全軍労書記長や県労協議長などの要職を歴任。89年に県労協と県同盟が合流して連合沖縄が結成され、初代会長を4年務めた。事務局長の伊佐順光も沖縄工業電気科の後輩だった。

 厚生年金の格差是正運動には、経済界とともに「総ぐるみ」で取り組んだ。精力的に活動できたのも「沖縄工業でハングリー精神を培うことができたからこそ」と話す。

玉寄 哲永氏

 県子ども会育成連絡協議会会長(沖子連)などを歴任し、2006年以降は教科書検定の「集団自決(強制集団死)」を巡る「9・29県民大会決議を実現させる会」の活動を引っ張る玉寄哲永(87)=那覇市=は4期(電気科)。

 戦前は那覇の辻町に暮らし、44年の十・十空襲を体験し、沖縄戦では家族と糸満の喜屋武まで逃げた。両親は戦後、旧越来村嘉間良でホテルを経営した。「コザホテル」と呼ばれ、米軍基地建設に関わる本土業者も多く訪れたという。

 中2の時、父が家を出て行った。いつも母を悲しませていた父には、今も複雑な思いがある。「工業高校は友達がいて楽しかったし、つらさを発散できる場所だった」

 安謝時代の校舎は「かまぼこ型のコンセットで、雨がザーザー降ると先生の話が聞こえなかった。楽しかったね」。校舎の移転作業では机やいすを頭に載せ、松川まで歩いた。「運動場も、毎日生徒がノルマを課しながらスコップで掘り、少しずつならした」

 読書や漢文の授業が好きで、入学から半年で「自分は文系で、進路を誤ったな」と気付く。それでも恩師に支えられ卒業し、中央配電に就職。1年たてば臨時扱いから社員になれるはずが、上司に退職を迫られ、自ら会社を去った。「弱い者いじめをされている気持ちだった。権力への反発が芽生えたのもあの経験からだった」と回想する。

 所在なく過ごしていた玉寄に声を掛けたのは、沖縄工業の恩師の「知念先生」だった。安謝の工場の仕事を紹介してもらい、その後は沖縄新聞や沖縄公論などマスコミの職を渡った。

 63年から沖縄婦人連合会で広報活動に関わり、消費者運動を学ぶ。79年、沖子連初代会長に就任し30年余、子どもの育成に身を砕いた。活動を振り返り「中央配電の経験と、自身を救ってくれた沖縄工業の恩師の存在は大きかった」と感じる。

(文中敬称略)
(當山幸都)


 

 【沖縄工業高校】

1902年6月 首里区立工業徒弟学校として首里区当蔵で開校
 21年6月 県立工業学校となる
 45年4月 米軍空襲で校舎全壊
 48年4月 琉球民政府立工業高校として那覇市安謝で開校
 52年12月 現在の那覇市松川へ校舎移転
 72年5月 日本復帰で県立沖縄工業高校となる
2002年10月 創立100周年記念式典
 14年8月 全国高校総体の重量挙げで宮本昌典が優勝
 21年7月 写真甲子園で優勝