沖縄と本土を分けた27度線…「平和憲法下へ」復帰運動に燃えた男性の思い 「屈辱の日」きょう70年


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54年前に参加した海上集会の思い出を話す金城健一さん=16日、大宜味村喜如嘉

 1952年に発効したサンフランシスコ講和条約によって沖縄が日本から切り離されてから28日で70年を迎える。敗戦後、連合国の占領下にあった日本は主権を回復した一方で、沖縄を含む南西諸島は米軍の施政下に置かれた。4月28日は県民から「屈辱の日」とも呼ばれる。国頭村と鹿児島県与論町は28日、米軍施政権下で沖縄と鹿児島を分断する「国境」だった北緯27度線付近で、沖縄返還を求める海上集会を再現する。記念式典なども開催。両町村が一つになり、本土復帰の歴史と「屈辱の日」を後世に伝える。

 【北部】かつて「国境」だった北緯27度線付近で28日に再現される「沖縄返還要求運動海上集会」。元那覇市議の金城健一さん(77)=大宜味村=は、1968年の海上集会に与論側から参加した。集会を前に「復帰から50年の節目。沖縄の変わらぬ現状を訴えていきたい」と決意を新たにする。

 金城さんは沖縄戦直前の45年2月、大宜味村喜如嘉で生まれた。父は沖縄戦で戦死したため、顔は知らない。「どこで亡くなったのか分からない。今も遺骨が見つかっていない」

 米統治下の沖縄は、米軍人による事件事故が後を絶たなかった。62年、首里高校に進学し、全国高校弁論大会に出場したた金城さん。「17年も圧政に耐えている。その力は、いつか沖縄が祖国日本の懐に帰ることができるという固い信念から湧き出ている」。悲惨な戦争を経験した沖縄の人たちが抑圧されている状況から、本土復帰への期待を訴え、最優秀賞に選ばれた。

「沖縄返還要求運動海上集会」に向かうため、仲間たちと鹿児島を出発した金城健一さん(右から2人目)。後ろには桜島も見える=1968年4月、鹿児島県(金城さん提供)

 抑圧される沖縄。取り巻く状況はその後も続いた。「祖国から分断され、異民族支配に苦しめられる現状はおかしい」「平和憲法下で人権が保障される日本に戻りたい」と、日々復帰への思いを募らせていたという。

 東京の大学に進学後、復帰運動にのめり込んだ。68年、東京都代表として本土側から海上集会に参加することになった。仲間と共に本土復帰を訴えるのぼりを持ち、たすきを掛けて鹿児島へ向かった。

 「沖縄が返るまで頑張るぞ」。与論島沖の海上は熱気に満ちていた。沖縄側からサバニでやって来た母と海上で再会した。国境という「壁」は取り払われ、沖縄と与論で一体感が生まれた。「沖縄を返せ」を熱唱し、本土復帰への期待が最高潮になった。4年後、沖縄は復帰した。

 あれから半世紀。「暮らしもある程度良くなった」と実感しつつ、手放しでは評価できない思いもある。名護市辺野古の新基地建設を巡っては、「沖縄の声が尊重されていない」と指摘する。19年の県民投票で「反対」の民意が示されているのにもかかわらず、工事が進んでいるのが現状だ。「今の沖縄は憲法が適用されていると言えるのだろうか。『本土並み』になるまで闘う」。54年前と同じ思いで北緯27度に向かう。
 (長嶺晃太朗)