【識者談話】異議申し立てにリアリティー持たせる過渡期に(鳥山淳・琉球大教授)<対日講話条約70年>


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鳥山 淳氏

 1952年4月28日に発効した講和条約の内容は、前年9月の調印時に確定していたので、条約の発効日に沖縄社会が緊張感に満ちていたわけではない。その後の復帰運動で「4・28」に合わせて意思表示を続ける中で、この日が人々に意識されるようになったと推測される。その過程で「屈辱の日」という表現も出てきた。

 当初は帰属問題が主だった沖縄の訴えは、50年代の軍用地政策を巡る島ぐるみ闘争、60年代のベトナム戦争での拠点化などから、基地撤去要求が強まった。72年に沖縄が日本に復帰した後「4・28」は抑圧が続く現状を告発する日として位置付けられた。90年代後半の沖縄社会は、米兵による性暴力事件を機に、基地問題の解決に本腰を入れるよう日本政府に求めた。

 復帰当初は、広大な在沖米軍基地の存在は占領下で生じた異常な状態であって、「復帰後一定の年月が経てば解消される」という期待感があった。しかし復帰から50年が経過しても解決の兆しが見えないために、「政府はこの問題にまともに取り組む気がない」という諦めの気持ちも生じてくる。それを乗り越えて、異議申し立てにリアリティーを持たせるという点で、過渡期に来ている。

 「4・28」は、沖縄戦とともに始まった米軍の占領が既成事実化されていった先にある。シンボリックな「4・28」だけでなく、そこに至る歴史にも目を向ける必要がある。
 (沖縄現代史)