1969年11月、法政大の学生だった友寄隆都(たかくに)さん(75)=那覇市=は、羽田空港へとつながる都内の橋の前にいた。佐藤栄作首相訪米阻止闘争のデモ隊の中だった。「核抜き本土並み」の実現に疑念が生じる中、ニクソン米大統領との会談に臨む佐藤首相を何とか止められないかとデモ隊に加わった。
しかし、佐藤首相は官邸からヘリで空港入り。止める手だてを失ったまま、圧倒的な数の機動隊にこん棒やジュラルミンの盾で打たれ、意識を失った。東銀座で身柄を押さえられて逮捕。気付けば留置場の中だった。
67年、法政大に入学。大学は革命的共産主義者同盟全国委員会(通称・中核派)が大勢を占めていた。友寄さんは安保議論に関心はあるが、どの派閥にも属さない「ノンセクト」だった。友人に誘われ歴史研究会で討論することはあったが、過激な運動とは一線を引いていた。
研究会では沖縄返還も議題になった。学生運動に熱心な友人は「沖縄返還闘争は階級闘争。プロレタリア階級とブルジョア階級の戦いだ」と主張したが、友寄さんは納得しなかった。「沖縄が闘争の具にされている。復帰は沖縄のため、沖縄人のためにあるべきだ」と反論した。
友寄さんの頭にあったのは、沖縄で起きた二つの出来事だった。一つは1963年2月23日に起きた「国場君れき殺事件」。上山中1年だった男子生徒が信号を無視した米軍トラックにはねられて死亡し、運転していた米兵は軍法会議で無罪となった。隣の中学校に通っていた友寄さんはあまりの理不尽に衝撃を受けた。
もう一つは那覇高校に通っていた時だ。交際していた女性を家まで送るため、1号線(現国道58号)を横断しようとしたら、猛スピードで信号を無視する米兵の車両にひかれそうになった。恐怖に震える彼女を見て、激しい怒りを覚えた。
米統治下で暮らすとはどういうことなのか。実体験から沖縄返還交渉の行方を憂う友寄さんと、階級闘争の中に沖縄返還闘争を位置付ける学生運動。根本の考えにずれが生じたまま迎えた佐藤首相訪米阻止闘争の日。考え方に違いはあったが、故郷を思うと足はデモの現場に向いていた。
(稲福政俊)