具志堅用高さん「120%、沖縄のために闘った」元ボクシング世界王者を駆り立てた故郷への思い


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インタビューに答える具志堅用高さん

 「120%、沖縄のために闘った」。石垣市出身の元プロボクサー具志堅用高さん(66)は、沖縄の日本復帰から4年後の1976年、ライトフライ級の世界王者となり、その後13回防衛に成功した。胸には常に故郷への強い思いがあった。本土で沖縄差別が残る時代、その闘いぶりは沖縄の人々を勇気づけ、故郷への誇りを抱かせた。

 幼い頃は貧しく「牛乳一本飲めない。年1度の運動会の時だけ、鶏もも肉が重箱に入っていた」。海山をはだしで走り回り「がんじゅー(頑丈)でうーまく(やんちゃ)」な少年に。テレビで見たこともなかったボクシングだが「必要な根性や我慢強さは、島で育って得たんだ」と懐かしむ。

 足が速い一方、背が伸びず体格差に悩まされ中学の野球部では球拾いばかりだった。進学した那覇市の興南高で、甲子園にも出場した野球部の門をたたいたが、身長160センチ弱の体格で入部はかなわず。同級生に誘われボクシング部に入った。

1976年、ボクシングのライトフライ級世界王者となった具志堅用高さん

 下宿先の銭湯で働きながら部活漬けの日々。米軍基地に出向き、兵士とも試合をした。72年5月15日の復帰当日は、練習をしていた気がするが記憶は定かでない。3年の全国高校総体で優勝、注目を浴びていく。

 「石垣の高校に合格してたら、うみんちゅ(漁師)になってた。牛乳が飲めたら、体が大きくなって野球をやっていたと思う。神様がボクシングに出会わせてくれた」

 大学ボクシング部に進むつもりで上京すると、空港で出迎えたジム関係者に連れて行かれたのはプロデビューの記者会見。翌朝の紙面を飾り「沖縄のために世界チャンピオンになる」と覚悟を決めた。76年の世界戦では沖縄に向かい「勝たせてくれ」と祈ってリングへ。フアン・グスマン選手(ドミニカ共和国)にKO勝利し「一瞬で人生が変わった」と振り返る。

 「沖縄人お断り」と掲げる店や下宿もあり、差別や偏見が強かった時代。王者防衛を重ねる中、人々の沖縄への印象を肯定的なものに変えていった。出身者からは「会社で『沖縄の人はすごい』と言われた」「おまえが世界王者になったからアパートが借りられた」と感謝された。「チャンピオンになるすばらしさは、ここにもあるのかな」

 81年の14度目の防衛戦で敗れ引退。現在は陽気なキャラのタレントとしても活躍する。15日で復帰50年。「沖縄人には胸を張って行動してほしい。若い子たちには、スポーツでもノーベル賞でも、頂点を目指してほしい」と期待を込めた。
(共同通信)