海洋博不況、バブル崩壊…苦境支えたオキちゃん 「優等生」アイドルに悲しい過去も<私と沖縄>特別編


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 復帰前後、県内は復帰後初の大型催事となる沖縄国際海洋博覧会(海洋博)の準備で活気づいていた。72年4月に決まった海洋博のテーマは「海―その望ましい未来」。75年の開催に向け、日本を代表するグラフィックデザイナーの故亀倉雄策氏がイルカのマスコットをデザインし、県内の小学生が「オキちゃん」と名付けた。

空を飛んできた

 74年6月10日から数日間かけ、海洋博会場で展示するイルカを奄美大島で集めた。15頭のイルカが集まり、海洋博に向けて飼育が始まった。イルカの背びれには個体識別用にタグが装着された。黒、白、紫、緑などカラフルなタグで色分けし、色にちなんで「クロ」「シロ」「ムク(黒紫)」などの名前が付けられた。

 その中に、ひときわ賢い雌のイルカがいた。「白緑(シロミドリ)」と呼ばれていた。バンドウイルカの亜種(後に別種のミナミバンドウイルカと認定)で、イルカらしい美しい容姿も際立っていた。イルカショーのエースに抜擢(ばってき)されたシロミドリは、海洋博のマスコット「オキちゃん」の名前を受け継いだ。紙に印刷されていたマスコットのオキちゃんが、生きたイルカとなって現れた。
 

海洋博会場に到着し、名付け親の児童らから出迎えを受けるオキちゃん=1975年4月25日、本部町

 75年4月25日、奄美での訓練を終えたオキちゃんは、ヘリコプターで海洋博会場に空輸された。沖縄美ら海水族館の戸田実館長(71)は当時、イルカの確保と飼育に携わり、オキちゃんとは別のイルカで行ったテスト空輸にも関わった。「ヘリの足の先端に木製コンテナを付け、中にイルカを入れて運んだ。ヘリは大きな音がするので、空輸時のストレスを軽減するため、大きな音に慣れさせる訓練をした」。県民待望のオキちゃんは、空を飛んでやってきた。
 

不況の裏で

 75年7月20日、ついに海洋博が開幕した。各国のパビリオン(展示館)が会場を彩り、海には海上都市アクアポリスが登場した。イルカショーも目玉の一つで、多くの家族連れがオキちゃんに会いに来た。76年1月18日までの期間中に349万人が来場し、77%に当たる270万人がオキちゃんのいる水族館を訪れた。オキちゃんは海洋博を支えた最大の功労者だった。

 だが、海洋博の来場者は目標の450万人に届かなかった。経済発展の起爆剤と期待されたが思惑通りにならず、過剰な投資をした業者が相次ぎ経営破綻。海洋博後の観光客数は落ち込み、乱立したホテルの稼働率は低下した。大型イベントの反動は大きく、倒産と失業者が続出する「海洋博不況」に陥った。

 沖縄全体が不況にあえぐ裏で、海洋博後の会場は国営公園化され、オキちゃんがショーを披露した「オキちゃん劇場」は76年4月から無料公開された。地元の家族連れや修学旅行生は、海洋博後も変わらず、オキちゃんたちに会いに来ていた。

 海洋博不況を乗り越えた後も、沖縄観光はたびたび苦境にたたされた。バブル崩壊、米同時多発テロ、リーマンショック、新型インフルエンザ流行…。その間も、オキちゃんはショーに参加し、訪れた人々を笑顔にしていた。

 ショーは、奄美からやってきたオキ(オキちゃん)、ダン、ポイの「奄美トリオ」が長く牽引(けんいん)した。雄のダンとポイは時折、ショーをそっちのけにすることもあったが、雌のオキちゃんはしっかりと役割を果たし続けた。

 93年から約20年間、イルカを担当した真壁正江さん(53)は「オキは優等生。担当が変わると言うことを聞かなくなるイルカもいるが、オキは誰が担当でもきっちりショーをこなしてくれた」と振り返る。
 

 イルカが一つの種目を覚えるのには数カ月から数年を要す。必然的にトレーニング期間が長いイルカほど種目の数も多い。ダンとポイが死んだ今、最も多くの種目を習得しているのはオキちゃんだ。口の先にボールを乗せて運ぶ種目もオキちゃんだけが披露できる。

 現在のトレーナー比嘉克(すぐる)さん(33)は、古い映像の中で自分の知らないジャンプを見せるオキちゃんにくぎ付けになった。「オキは知っているけれど、トレーナーの方で引き継がれていない種目がある」と明かす。

 秘技となったジャンプの一つに「前方サマーサルト」がある。勢いよく水面に飛び出し、前方に2回転する大技だ。柔らかい体を丸めてくるっと回る、ミナミバンドウイルカならではの美しいジャンプに、トレーナーも魅了された。

 「オキちゃんにはいったい、いくつの種目があるんだろう」。比嘉さんは、劇場のエースを羨望(せんぼう)のまなざしで見つめる。
 

健康長寿

 沖縄美ら海水族館管理部動物健康管理室の植田啓一室長(53)は「25年以上務めているが、オキが大きな病気を患った記憶はない」と、オキちゃんの健康に感心する。

 植田室長は獣医師でありながらトレーナーとしてショーに出ていた異端児だ。さまざまな業務をこなして各部署と円滑な関係を築き、イルカたちの観察や治療に役立てている。現在、水族館は8人の獣医療チームでイルカの健康を守る。

 代々のイルカ担当者は「イルカを擬人化しない」という教えを踏襲している。言葉が通じないからこそ、「えさを食べないのは機嫌が悪いからだろう」「いつもよりジャンプが低いのは手を抜いているから」などの主観を排除し、客観的なデータに基づく飼育を心がける。

 しかし、歴代担当者は大切な教えを強調した上で「でもね」と言葉をつなぐ。「オキは優しい優等生」「オキは弱いところを見せない」「いつもオキに助けられていた」。どの担当者もオキちゃんへの思い入れは強く、相棒を語るような言葉だ。海洋博のオキちゃんマークが入った作業着を着用する植田室長も「オキちゃんはずっと全県民のスターだ」と目を輝かせる。
 

ポーズをとるオキちゃん=4月8日、本部町の海洋博公園イルカラグーン

 75年に奄美からやってきた15頭のイルカは、オキちゃん、クロ、ムクの3頭になった。沖縄の日本復帰50年を迎える2022年5月15日現在、3頭の飼育期間は47年と14日。3頭のうち最も若いオキちゃんは、今後もミナミバンドウイルカの国内最長飼育記録を背負っていくとみられる。

 健康長寿のオキちゃんだが、出産では苦しんできた。12回の出産を経験したが、死産が多く、順調に成長した子どもは99年4月に生まれた雌の「サミ」だけだ。2004年に生まれた雄の「ジュン」も健康だったものの、不慮の事故で死んでしまった。悲しい過去も背負って生きている。
 

望ましい未来は

 来県から長い年月がたち、イルカを取り巻く環境は変わってきた。アニマルウェルフェア(動物福祉)の観点から、イルカショーが動物虐待になるのではないかと批判が出るようになった。野生から新たなイルカの導入を禁じる動きもある。

 病気で尾びれを失ったバンドウイルカ「フジ」に、人工尾びれを付けるプロジェクトに関わった古網雅也さん(44)は「オキやフジに関わったことで考えさせられた。飼育しているイルカを野生に返せばいいという話ではない。イルカという動物にとって何がいいのか。常に自問自答している」と語る。

 ショーのとらえ方も変化した。昔は観客を喜ばせるための催しだったが、現在は健康管理のための運動が目的だ。無理をさせる大技も少ない。

 オキちゃん来県のきっかけとなった海洋博のテーマは「海―その望ましい未来」。復帰50年を迎え、望ましい未来はやってきたのだろうか。戸田館長は、オキちゃん劇場の向こうに広がる海を眺めながら「昔はたくさんの魚が泳いでいたが、今は数が少なくなってしまった」と顔を曇らせる。復帰に何を望み、復帰後はどういう道を歩んだのか。変わったものと変わらなかったものは何か。「オキは今も考えるきっかけを与えてくれる」

 復帰後、県民と同じ歴史を歩んだオキちゃんは、きょうも青い海をバックに高くジャンプする。

 (稲福政俊)