沖縄の頭越しに進む復帰対策…当時の内幕、元琉球政府職員が手記に記した理由


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平良氏が復帰対策室で勤務した日々を当時記した手記「復帰対策の裏街道」

 「『琉球処分』の手伝いをさせられながら、形の上では沖縄の声を取り入れる中で復帰業務が推進されている」(1971年3月15日付)。69年11月21日の佐藤・ニクソン共同声明で沖縄の72年返還が発表される直前の同18日に立ち上がった琉球政府復帰対策室に、平良亀之助氏は発足時から勤務。当時の日々を「復帰対策の裏街道」と称した手記もしたためていた。琉球政府の頭越しに進む復帰対策への不満や屋良建議書作成に至る内幕が記されている。

 71年3月23日の復帰対策要綱第2次分の閣議決定を受けた手記では、琉球政府が同20日付で日本政府に要請をしていることから「後世の史家は(中略)琉球政府の要請を十分に聞き入れる中で閣議決定をしたと理解するだろう」と指摘。その上で「だが事実は(23日に)閣議決定されるちょうどその頃、琉政の要請書は日本政府の最末端の窓口に届けられたころだった」と記した。

 「全てが本土政府のペースによって運ばれ、何ら琉球政府の主体性は貫けない」などと不満をつづった。こうした状況が平良さんを含む職員有志に共有され、建議書作成につながった。

「屋良建議書で唱えた『基地のない平和な沖縄』を実現してほしい」と話す平良亀之助氏=6日、那覇市

 屋良朝苗主席(当時)は当初、平良氏ら若手職員が作成した建議書の前身となる「意見書」に対して「私は(日本政府に)持っていけません。これについては既に(日本政府で復帰対策を主導した)山中(貞則)大臣と約束してありますから」「山中大臣はびっくりするだろうな」などと難色を示したと明記されている。

 当時既に復帰対策はほぼ固まっており、屋良主席は日本政府から「ちゃぶ台返し」と捉えられることを危ぶんでいた。このため屋良主席は自身で前文を追記した上で、内容と名称を改め「建議書」として上京した。

 平良氏は「歴史の一大転換点に気概を持って復帰対策室に行ったが、日本政府からの情報がなく、仕事は全くなかった。こうした復帰対策の内実を後世に残すために手記を書いた。歴史を変えようとする動きがあればこの手記で対抗できる」と話した。

(梅田正覚)