式典で国民統合の象徴である天皇は、今なお課題が残ると指摘した。岸田文雄首相は、沖縄の施政権が日米両国の友好と信頼で可能となったと述べ、選挙公約のように今後の施策を並べた。返還の原動力が沖縄の人々の努力にあったことには言及しなかった。日米同盟の代償を、沖縄が払っていることも素通りした。
施政権を米国が放棄した結果、50年前に日本は沖縄に再び「県」を設置できた。69年3月、佐藤栄作政権は「72年」「核抜き」「本土並み」返還を目指すと公言し、対米交渉に入った。佐藤は、同年11月のニクソン米大統領との共同声明で三つとも実現させたとして凱旋(がいせん)し、翌月の総選挙で自民党は大勝した。以降、日本の政治課題として日米安全保障問題は消える。日米安保のひずみに陥る沖縄から、基地問題は全国の問題だと声高に叫んでも、その反応の乏しさに象徴される。
「72年」の背景には、70年に失効する日米安保条約延長があった。沖縄の施政権について、米国の放棄合意で解決できれば、条約延長に至る日米共通の利益があった。「核抜き」は沖縄に貯蔵されてる核兵器を、沖縄返還時までに撤去することを指す。
米側が核兵器への日本人の「特殊な感情」に配慮し、撤去合意がなされたと理解される。「本土並み」は日米安保条約や地位協定などの関連取り決めを「変更なし」に沖縄に適用することを指す。本土と同じという点で本土並みであった。
施政権返還の当時から、沖縄の望むような施政権返還の形態でないことは指摘されてきた。欠けているものがあるとすれば、沖縄の人々自身が沖縄について何かを決めることをなおざりにしてきたことだろう。さまざまな復帰50年イベントに、沖縄の人が主体的に関わっているだろうか。沖縄の現状について沖縄の人々が考えることがなければ、これからの沖縄を自らが決めることは神話となる。誰かに頼っている限り、何ともならないのだ。
(国際政治学)