来年で創業70年を迎える福地組会長の福地裕吉(74)は16期。1947年、民間人収容所があった石川に生まれ、物心がつく頃、実家のあった嘉手納町に引っ越した。幼少期はとにかくわんぱくで、「近所のおばーたちから柱にくくりつけとけと言われていた」と笑う。町域の8割以上を占める米軍基地と隣り合わせの生活の中、「フェンスがどこまでも続いていると思っていた」。
5歳の時、大工の棟りょうだった父鴻得が福地組を創業し、戦後復興期の住宅需要を支えた。父の後を継ぐため63年、沖縄工業に進学。178センチの長身を生かし、陸上部に所属、中距離と円盤投げの選手として活躍した。高校に入ってもわんぱくぶりは発揮され、入学時に入った下宿先は「2カ月ほどで追い出された」。国際通りでよく遊んでいたと語る福地だが、授業は真面目に受け、級長も務めた。上下関係が厳しい時代、「目立ったからか先輩から殴られたこともあるが、やり返しもした」と負けん気をみせる。
高校卒業後、国費制度を利用して山梨大学の土木工学科に進学した。高校時代と同様にさまざまな地域から集まった学友と切磋琢磨し、土木建築に関する知識を貪欲に吸収した。大学卒業後はそのまま本土の大手ゼネコンに就職し、山陽新幹線や東北新幹線など大型工事の現場監督を務めた。「仕事に対する姿勢は本土で学んだ。県外での経験が今も生きている」と語る。
沖縄に戻ってきたのは29歳だった77年。翌78年に2代目社長に就任したが、その直後に父が脳出血で急死した。「引き継ぎもできないまま父が亡くなった。社長になって初めて累積赤字があることを知った」。健全経営を社是に掲げた福地はトタン屋根の小屋から始まった福地組を県内有数の建設会社に育て上げた。2021年、「元気なうちに」と社長の座を長男の一仁に譲った。
社業にまい進する福地にとって高校時代は「楽しくて仕方なかった。まさに青春を謳歌した」。
自民党県連の総務会長を務める末松文信(74)も16期。伊是名村でサトウキビや稲などを育てる農家の次男に生まれた。農作業を手伝いながら友人らと釣りをしたり、木登りをしたりと自然の中でのびのび育った。小さい頃から工事現場をのぞくのが好きで、「青焼き図」(設計図)を描く建築士に憧れた。
幼少の頃から、両親から「長男以外は食いぶちがないから中学を卒業したら島を出なさい」と言われ続けた。「自立心が芽生えるのも早かったかもしれない。成績が優秀なら那覇に連れて行くとも言われた」と振り返る。末松によると、当時の伊是名は本島に出る子どもに仕送りする余裕がない家庭も多く、高校進学を機に家族まとめて本島に引っ越す家庭も少なくなかったという。
中学2年の時、父が病死、高校の学費は兄と姉が工面した。那覇に来て最初の1週間は眠れなかった。入学当時の身長は138センチ。こわもての先輩から「かわいいと言われた」ことも思い出の一つ。末松は「島でキビを担ぎすぎて身長が伸びなかった」と笑う。女子がいた那覇商業高校との合同遠足も良き思い出だ。同期で後に公明党県本部代表などを務めた糸洲朝則とは高校時代からの友人で、学園祭の準備で徹夜した日の朝に一緒に食べた具のない「さび汁」の味を今でも覚えている。
高校卒業後は名護市の設計事務所に就職。その後、東京での生活を経て、1976年に1級建築士の資格をとり、83年に独立した。政治との関わりは86年の名護市長選。市内の停滞感に危機感を持ち、比嘉鉄也を応援した。比嘉市政が誕生した翌年に名護市役所に入り、比嘉、岸本建男、島袋吉和の歴代3市長を助役、副市長として支え、2012年に県議に転身した。
「沖縄工業で生涯の友を得た」。高校卒業から半世紀以上が過ぎた今でも高校時代の友人との交流は続いている。
(文中敬称略)
(吉田健一)
【沖縄工業高校】
1902年6月 首里区立工業徒弟学校として首里区当蔵で開校
21年6月 県立工業学校となる
45年4月 米軍空襲で校舎全壊
48年4月 琉球民政府立工業高校として那覇市安謝で開校
52年12月 現在の那覇市松川へ校舎移転
72年5月 日本復帰で県立沖縄工業高校となる
2002年10月 創立100周年記念式典
14年8月 全国高校総体の重量挙げで宮本昌典が優勝
21年7月 写真甲子園で優勝