沖縄工業は戦後、1948年に新たなスタートを切った。機械科、電気科、建築科が設置され、離島を含めて全琉から生徒が集まった。唯一の工業高校で学び、技術を身に付けた生徒は卒業後、「金のたまご」として戦後復興を担った。
1級建築士で、現在の県庁舎の実施設計にも関わった新垣秀雄(90)は48年、1期生として機械科に入学した。台風被害で校舎が壊れる様子を見て、2年から建築科に移り51年に卒業した。
32年、フィリピン・ミンダナオ島ダバオ生まれ。両親は北中城村熱田出身で、開発移民としてダバオに渡った。バヤバス日本人尋常小学校に通い、朝は国旗掲揚と君が代斉唱に始まった。終戦後はLST(戦車揚陸艦)で広島・呉に引き揚げ、九州で1年ほど過ごして沖縄へ渡った。初めて見る沖縄は「住まいが不便で、期待外れだった」と振り返る。
技術を身に付けるため、那覇市安謝にあった工業高校に進む。戦後の1期生だが、戦前の生徒も研究生として残っていた。「研究生には筋が通ったことを言われ、鍛えられた」。制服は軍服のお下がりで、校舎はコンセット。寮に当たる寄宿舎で生活した。
メリケン粉で作った団子汁をよく食べていた。建築科では、授業代わりに米軍の兵舎建設にも応援で駆り出されたこともある。現在の那覇新都心にあった「銘苅ガー」で洗面や食器洗いをし、水遊びをして遊んだ。
卒業後は建設業者の仕事などを経て、嘉手納基地内にあった、デンマーク人のジョーゲン・シャーベックの設計事務所で働いた。プラザハウスの設計に関わった人物である。新垣はその後も米軍関係の建築業者で働くが、数年して1級建築士の資格を取り、独立した。
85歳まで続けた現役生活で、多くの学校や公民館や警察署を設計したほか、A&Wや閉館したコザ琉映なども手掛けた。老朽化して取り壊しになった建物もあるが、「車で移動中する時は、遠回りしてでも自分が関わった建物は見に行くようにしている」と笑う。
県建築設計監理協同組合理事長、日本PTA全国協議会会長などを歴任した屋田直勝(86)は4期。35年、旧羽地村仲尾次に生まれた。多野岳でまきを取ったり、羽地大川で泳いだりと自然に囲まれ育った。しかし戦争が近づくと竹やりを持ち、日本の勝利を信じてやまなかった。
10歳で細工師だった父が亡くなり、生活は困窮する。5歳上の姉が米軍基地で働き家計を助けた。高校の学費も姉が工面した。屋田は今は亡き姉から「世のために尽くしなさいと言われてきた」と振り返る。
世のためにと建築士の道に進むことを決めた屋田は51年、沖縄工業建築科に進学し、寮に入った。平日は勉強、週末はアルバイトに明け暮れた。寮生活の中で戸惑ったのが各地から集まった同級生が話す方言だった。校内では生徒会役員を務め、3年生の時には寮長に選ばれた。元気がとりえで3年間無遅刻無欠席、小中高ともに皆勤賞で、「忙しくて病気する暇もなかった」と笑う。卒業式で答辞を読んだのも思い出の一つだ。
高校卒業後は琉球政府工務交通局に採用された。建築課長などを経て、72年に沖縄総合事務局の建設専門官に就任。74年に独立し、県立郷土劇場があった東町会館や宜野湾市民会館などを手掛けた。
4人の息子にも恵まれ、「家庭教育に父親の出番」を信念にPTA活動にも力を入れた。84年には県PTA連合会の会長に就任し、90年には県内初の日本PTA全国協議会会長に就いた。
多くの肩書を持つが、2年前全て退いた。「『一念岩をも通す』の気概で駆け抜けてきた。高校時代の先生方のおかげで今の私がいる。感謝したい」と語る。
(文中敬称略)
(當山幸都、吉田健一)
【沖縄工業高校】
1902年6月 首里区立工業徒弟学校として首里区当蔵で開校
21年6月 県立工業学校となる
45年4月 米軍空襲で校舎全壊
48年4月 琉球民政府立工業高校として那覇市安謝で開校
52年12月 現在の那覇市松川へ校舎移転
72年5月 日本復帰で県立沖縄工業高校となる
2002年10月 創立100周年記念式典
14年8月 全国高校総体の重量挙げで宮本昌典が優勝
21年7月 写真甲子園で優勝