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回答に「洋式トイレ」80点…大湾清之さん 「T定規」に憧れて…国吉真正さん 沖縄工業高校(8)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1964年代の体育祭の一幕(「創立90周年記念写真集」)

 琉球古典音楽安冨祖流絃聲会師範で笛奏者として国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者の大湾清之(75)は15期。1946年、読谷村に生まれ、毎日、ユーバンタ浜を駆け回った。5歳の時、古里が米陸軍トリイ通信施設にのみ込まれ、家族で那覇市に引っ越した。那覇に来た当時について「私の話すウチナーグチが那覇では通じなかった」と振り返る。

大湾 清之氏

 父は琉球古典音楽野村流師範、母は箏奏者と、生活の中に音楽があった。笛との出合いは那覇中学時代。授業で使う縦笛を買わずに勘違いで横笛を買った。横笛は大湾一人だけだったが、そのまま授業を受けた。「横笛はなかなか音が出ない。触っているうちにどうにか音が出て、友人が集まってきた。それから面白くなった」。

 音楽とは違って、勉強はからっきしで、沖縄工業建築科への進学は「父の希望だった」。机に向かうのが苦手で、学校を抜け出し那覇琉米会館にあった図書館に入り浸った。建築史のテストは問題が解けず、答案用紙に図書館で初体験した洋式トイレについて書いたところ80点を取った。「ユニークな先生だった」のか、今でも忘れない。

 高校卒業後、生コン会社に就職したが、体調を崩し、半年で辞めた。その後、猛勉強の末、無線通信士の資格を取り、琉球電電公社に入社した。しかし「一生を懸ける仕事ではない」と感じ、5年で辞め、その後も職を転々とした。

 大湾は自身の人生を「ずっと中途半端だった」と振り返る。そんな大湾が唯一続けてきたのが音楽だった。20歳の時、安冨祖流の隆盛の礎を築いた宮里春行に師事し、三線と並行して笛奏者として、多くの舞台を踏んだ。今はライフワークとして琉球古典音楽が持つ理論について研究を進めている。「研究は私が唯一、社会貢献できるもの」。師の宮里が完成できなかったものを「少しでも完成に近づけたい」と語る。

国吉 真正氏

 大湾が同期で一番優秀だったと語るのが、県公文書館や浦添市役所庁舎などの設計に関わった1級建築士でエー・アール・ジー社会長の国吉真正(75)だ。国吉は1947年、那覇市に生まれた。雑貨商を営んでいた父が多額の借金を背負っていたこともあり、極貧生活を送った。高利貸の街金業者からの借金は利息の支払いすら厳しかった。幼少期に味わった強烈な原体験は後に国吉が掲げる経営哲学につながる。

 与儀小、寄宮中に通い、「早く一人前になって家計を支えたい」との思いから県内唯一の工業高校だった沖縄工業への進学を決意するが、家計を支えたいとの思い以上に沖縄工業生がかばんに忍ばせていた「T定規」に憧れた。「T定規を使って建物を造ることを知って興味を持ち、1級建築士という資格も工業高校を出たら取得できると知り、建築の道を選んだ」と振り返る。

 高校時代はバスケ部に所属し、部活に勉強、そしてアルバイトに明け暮れた。夏休みなどの長期休暇には建築現場で働いた。「学生生活は楽しかったが、家計を支えるのに必死で、ほとんど遊びはしなかった」と語る。努力のかいもあって、国吉が卒業設計でつくったコミュニティーセンターは日本建築学会賞を受賞した。

 高校卒業後は旧那覇市庁舎を設計した故宮平久米男が立ち上げた宮平建築設計事務所(現宮平設計)に就職。その後、設計の道を究めるため東京の設計事務所に転職、当時、沖縄にはなかった超高層団地などの設計に携わった。

 東京での修行を終え、沖縄に戻ってきた国吉は1974年、エー・アール・ジーの前身であるクニヨシ設計を立ち上げ、84年に現在の名称となった。国吉にとって建築は生活を豊かにするものだ。「建物が建つことで街並みや生活環境が豊かになる。建築はまちづくりの根幹だ」と語る。

 (文中敬称略)
 (吉田健一)


 

 【沖縄工業高校】

1902年6月 首里区立工業徒弟学校として首里区当蔵で開校
 21年6月 県立工業学校となる
 45年4月 米軍空襲で校舎全壊
 48年4月 琉球民政府立工業高校として那覇市安謝で開校
 52年12月 現在の那覇市松川へ校舎移転
 72年5月 日本復帰で県立沖縄工業高校となる
2002年10月 創立100周年記念式典
 14年8月 全国高校総体の重量挙げで宮本昌典が優勝
 21年7月 写真甲子園で優勝