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働きながら真っ赤な自家用車で通学…新垣哲司さん 「一族の誇り」の名もらい「喜瀬武原闘争」へ…崎原盛秀さん 沖縄工業高校(10)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
沖縄工業高校定時制電気科の授業風景(1971年卒業アルバム「たくみ」より)

 1955年、沖縄工業高校に定時制課程が設立され、機械、電気、建築の3科が置かれた。初年度の新入生は100人。以来、2012年度を最後に廃止されるまで、多くの人材を輩出してきた。

新垣 哲司氏

 自民党県連会長などを歴任した新垣哲司(73)は定時制13期。49年、糸満市に生まれた。子どもの頃から運動が好きで、走るのが得意だった。父は公務員、母は農業をしていた。

 真壁小、三和中を経て、兄が通っていた埼玉県の自動車整備学校に入学する。自動車産業が盛んな時代で、若者の多くがスポーツカーに憧れ、新垣は整備士を目指した。1年で整備士3級を取得、翌年には沖縄に戻り、那覇市にあった車検検査場に就職した。

 68年、「スキルアップ」を目的に沖縄工業定時制の電気科に入学し、働きながら学校に通った。当時の月給は80ドルほどで、真っ赤ないすゞのベレットで通学した。「学校の先生より稼いでいた」と笑う。

 中学は野球、高校では陸上に打ち込んだ。校内一の俊足を誇り、県大会の100メートル走では11秒台を記録し、優勝した。「高校はスポーツに熱中した3年間だった」と振り返る。

 4年間の高校生活を終えた新垣は、スポーツ好きが高じて糸満市で運動具店を始めた。商売を通じて市内に陸上競技場などのスポーツ施設がないことに疑問を抱き、77年、市議選に立候補し初当選した。92年に県議に転じた。神職だった伯父の影響で保守主義に傾倒し、県議会の最後の質問では「天皇陛下、万歳」と発言し、物議を醸したが、本人は「信念に基づくもので、世界の恒久平和を願い、日本が世界に貢献できるよう祈願して万歳した」と語る。2016年、39年の議員生活に別れを告げた。「多くの人と触れ合う機会に恵まれた。悔いのない人生だった」と語った。

崎原 盛秀氏

 西原町長の崎原盛秀(65)は26期である。1957年、西原町小波津に生まれた。盛秀という名前は「金武湾を守る会」代表世話人として石油備蓄基地反対運動(反CTS闘争)をけん引するなど住民運動の第一線に立ち続けてきた故崎原盛秀からとった。2人は親戚関係で、「盛秀さんは崎原家で最初に教員になった人で、私の父が盛秀さんを一族の誇りと思っていた」。

 幼少期は自宅近くを流れる小波津川でよく遊び、今はなき製糖工場のバガス置き場で「バク転」の練習に励んでいた。西原小、西原中に通い、中学時代はバスケ部に所属した。レギュラーにはなれなかったが、校内マラソン大会では3年連続2位だった。「1位の生徒は毎年違うのに2位はいつも僕だった」と笑う。

 設計士だった兄の影響もあり、73年、沖縄工業の建築科に進学する。高校では部活に入らなかったが、部活の大会がある度に応援団として駆り出された。上下関係が厳しく、「1年生の時は『声が小さい』とよく怒られた」。恩師の国吉真一は沖縄工業の校章をデザインしたことで知られ、「とても優しくユーモラスな先生だった」と懐かしむ。

 卒業後は県外での就職を希望していたが、兄の勧めで義姉が経営する浦添市内の設計事務所に就職し、働きながら沖縄大学の夜間部に通った。大学生の時に地元の青年会に入り、地域活動を始めた。

 青年会長として青年会だよりを各家庭に配る中で、地域住民から「頑張れよ」と何度も励まされた。「地域に恩返しをしたい」と思いを深めていたタイミングで、町役場の採用試験の存在を知り、迷うことなく挑戦した。役場では組合活動にも熱心に取り組み、米海兵隊による県道104号越え実弾砲撃演習の阻止を目的に県民が闘った「喜瀬武原闘争」にも積極的に参加した。

 その後、建設部長などを経て55歳の時に副町長に就任。2018年に町議に転身し、20年の町長選で初当選した。同級生との交流は今も続いている。西原町のトップとして、「人と人の絆を大切にする環境づくり」にまい進する。

 (文中敬称略)
 (吉田健一)


 

 【沖縄工業高校】

1902年6月 首里区立工業徒弟学校として首里区当蔵で開校
 21年6月 県立工業学校となる
 45年4月 米軍空襲で校舎全壊
 48年4月 琉球民政府立工業高校として那覇市安謝で開校
 52年12月 現在の那覇市松川へ校舎移転
 72年5月 日本復帰で県立沖縄工業高校となる
2002年10月 創立100周年記念式典
 14年8月 全国高校総体の重量挙げで宮本昌典が優勝
 21年7月 写真甲子園で優勝