沖縄球児の甲子園での躍動…県民が託した思い 初出場の土は海へ


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 第104回全国高校野球選手権大会の出場を懸けた地方大会は18日に全国のトップを切って、沖縄で開幕する。沖縄が日本に復帰して50年。県民は地元球児が甲子園で躍動する姿に思いを託してきた。沖縄高校野球の軌跡をたどり、未来を探った。

沖縄の高校野球振興に尽くした元沖縄県高野連理事長の安里嗣則=沖縄セルラースタジアム那覇

 戦後、生活を再建していくなかで、娯楽の一つとして野球が広がった。米軍の各基地に野球チームが存在。古くなった道具が、住民に供与されたことなどがきっかけとなった。

 本土では、1946年夏、戦争のため中断していた全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)が再開した。

 58年の選抜大会には、沖縄の高校生4人が招待された。後に日本高野連会長となる佐伯達夫(故人)は「沖縄は草木がなくなるほど、米軍に地上戦で攻撃され、うちひしがれた。沈んだ子どもを元気づけるのが高校野球だ」と理由を語ったとされる。

 その中の1人で当時コザ高の球児だった安里嗣則(82)は「土が本当にきれいだった。こんなに美しい場所があるのかと感動した」。当時は外野フェンスのある球場が沖縄にはなかった。後に沖縄県高野連理事長を務める安里は、バックネット裏から食い入るように見つめ、目を輝かせた。

 58年夏の甲子園大会は、第40回の記念大会として、史上初めて全国の都道府県の代表校に、沖縄の代表校を加えて開催された。沖縄勢初の甲子園出場は、首里高がつかんだが、惜しくも初戦で敗退した。

 パスポートに相当する渡航証明書を握りしめ、船と汽車に揺られた首里高ナイン。持ち帰った甲子園の土は「外国の土を持ち込んではならない」という米国の検疫に抵触し、那覇港の海に捨てられてしまった。
(敬称略)


知恵を絞った先駆者 “後進県”から強豪へ

 

(左)1999年、選抜大会で力投する沖縄尚学高の比嘉公也=甲子園。(右)1999年の選抜大会で、沖縄勢として初優勝した沖縄尚学高監督の比嘉公也

 1958年夏に初出場して以降、沖縄のチームは初戦敗退が多かった。68年夏に興南高が4強入りした「興南旋風」を除けば、対戦相手やスタンドからは、同情するような声が聞こえてくることもあった。

 本土の強豪に追い付くために知恵を絞った先駆者が、90、91年に沖縄水産高を2年連続で夏の甲子園準優勝に導いた栽弘義(故人)と、元沖縄県高野連理事長の安里嗣則(82)だ。栽は中京大、安里は日本体育大に進学。全国の高校野球の強豪校を回って指導法を学んだ。野球関連の指導書も数百冊を沖縄に持ち帰り、勉強会を開いた。

 沖縄の本土復帰後に安里が発案した「野球部対抗競技会」が始まった。シーズンオフに、全校の野球部員が陸上競技場に集まり、中距離走や遠投などをユニホーム姿で競い合う。基礎体力の統計を取って、野球に生かした。1年生が試合をして上級生が裏方をする「1年生大会」もスタート。上意下達の傾向が強かった高校野球を変革する形として、沖縄発で全国に広がった。

 80年代に入ると、沖縄勢は甲子園で勝利をつかむようになった。99年、沖縄尚学高が選抜大会で県勢として初優勝したときは、那覇市随一の繁華街、国際通りから人通りが消えたという。当時のエースだった比嘉公也(40)は、那覇空港で出迎えた人垣と熱狂ぶりが忘れられない。「学校の近くを歩いていると、おばあちゃんが、野菜とか果物をくれる。みんな、ありがとうって、高校生の僕に言うんです」。“後進県”から強豪へ。高校野球は全国で勝てるスポーツとして地位を築き、沖縄が一つになる象徴となった。
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地元で指導者の道へ 有望な中学生の県外流出も

 

(左)2010年、沖縄県勢初の春夏連覇を達成し喜ぶ興南高の島袋洋奨投手=甲子園(右)昨年、母校興南高のコーチに就任した島袋洋奨

 5月17日に沖縄セルラースタジアム那覇で開催されたプロ野球の西武―ソフトバンクは、沖縄県出身の選手が多く出場し、大きな拍手に包まれた。2008年の選抜大会で優勝した沖縄尚学高のエースだったソフトバンクの東浜巨(31)は今季、ノーヒットノーランを達成。「沖縄のプロ野球選手は、常に沖縄のことを考えてプレーしている」と語る。

 同じような思いを胸に秘め、沖縄に戻ってきた野球人が島袋洋奨(29)だ。島袋は興南高の主戦投手として、10年に沖縄県勢初となる春夏連覇を達成。一度打者に背中を見せるようにして投げるトルネード投法を武器に、春夏とも全試合で先発した。卒業後は中央大に進んだが、肘の故障などから伸び悩み、ドラフト5位で進んだソフトバンクでも、1軍は2試合の登板に終わった。

 島袋は20年に興南高の職員となり、昨年から野球部のコーチとなった。「将来的に沖縄に帰ろうと思っていた。多くの人がそう思っているんじゃないですか」と熱っぽく話した。

 興南高が春夏連覇して以降、将来が有望な沖縄の中学生が、県外の強豪校に勧誘されるケースが増えているという。沖縄尚学高の監督となった比嘉公也(40)は「その年のいい選手が10人いたら、全て行ってしまう」というほど、沖縄の野球はレベルが高くなった。

 今では多くのプロ野球チームが2月の春季キャンプを沖縄で行うようになり、野球施設の充実ぶりは全国屈指となった。

 春夏を合わせた甲子園大会の勝利数は100を数えた。沖縄勢が甲子園で試合がある日は、多くの県民が日付をチェックし、心待ちにする。沖縄の期待を背負う球児たちの夏が間もなく開幕する。
(敬称略)
(共同通信)