沖縄戦時、名護岳の山奥に逃げていた具志堅誓謹(せいきん)さん(89)=当時12歳=は「日本兵が来るよー」との住民の声を聞くと、すぐさま避難小屋に隠れた。過酷な飢えと闘う日々、「食料を取られはしないか」という心配が大きかった。命を守るため、米兵や日本兵がいると聞けば山の奥へ奥へと逃げ、少ない食料を守って食いつないだ。
戦前、名護町の東江国民学校(現名護市・東江小学校)に通っていた。軍国主義の流れの中、学校の休み時間にはわら人形を米兵に見立て「鬼畜米兵ー!」と叫びがら竹やりで突いた。1942年のシンガポールでの戦闘で日本が勝利した時には、地元の人と一緒に「万歳! 万歳!」と歓声を上げながら町内の城(ぐすく)の通りを行進した。
2年後の44年10月の登校途中、那覇が10・10空襲で攻撃され、上空に煙が立ち込めているのが名護から見えた。しばらくして、伊江島方面にいた駆逐艦が名護湾で沈没しているのを目撃。乗船していた兵隊が次々と運ばれてきた。
「戦は怖い」。徐々に身に迫る戦争を実際に目の当たりにすると、「死」に対する恐怖感が増していった。その頃、東江国民学校に日本軍が宿泊し、滞在するようになった。「怖くて、『頑張れ』とも言えなかった」と振り返る。
45年4月の米軍上陸後、戦況が悪化すると、両親ときょうだい6人、親戚数人で、名護岳付近の山に逃げた。山奥は戦闘の音は聞こえなかったが「米兵や日本兵に会うと殺される」という緊張感に包まれていた。山中では兵隊を避け、自分たちの食糧の確保に奔走した。数日に1回山を下り、誰の畑かも分からず目の前にある芋やソテツ、食べられる草を必死の思いで持ち帰った。
ある日、食料確保から避難小屋に戻ると、ある住民から「いったーお父がアメリカーに連れていかれたよ」と伝えられた。父の用正(ようしょう)さんは専売公社に勤めていたことで徴兵を免れていた。米兵を怖がって食料調達にも動かなかった父が、米兵に連れて行かれてしまった。「父は死んでしまう」とショックを受けると同時に、米兵が避難小屋に来たことが分かり、さらに山奥のワンドゥーと呼ばれる場所にすぐさま避難した。
具志堅さんは戦争のための教育を受けたものの「死」への恐怖感が上回り、戦から遠ざかる行動を取ったことが生き残りにつながった。
少ない食料で飢えは過酷さを極め、9人家族のうち当時1歳の弟・起用(きよう)ちゃんと0歳の妹・勝子(かつこ)ちゃんが避難途中に栄養失調で死亡した。だが当時、悲しいと感じた記憶は残っていない。「自分たちが生きていくのに精いっぱいだった。それが戦争というものだった」
「二度と戦争は体験したくない。もう絶対に起こしてはいけない」と強く語る具志堅さん。きょうだい2人の名前は糸満市摩文仁の平和の礎に刻まれており、南部に行く時には立ち寄っている。
(中村優希)