ルポ・島を歩く 「後輩」に語り継ぐ平和 77年後に判明した妹の亡くなった場所


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 国内で唯一、住民を巻き込んだ地上戦の沖縄戦は、1945年6月23日に旧日本軍の組織的戦闘が終結したとされる。それから77年。戦争体験者が少なくなり、平和の尊さをどう語り継ぐのか。戦禍を生き抜いた男性の記憶を基に、体験者の聞き取りを続ける大学院生とその道のりをたどった。

 身をかがめて洞窟に入ると、思いの外ひんやりした空気が流れていた。梅雨の蒸し暑さが漂う5月下旬、浦添市牧港の「チヂフチャーガマ(自然壕(ごう))」。奥には全長100メートル超、高さ約4・5メートルの空間が広がる。「多い時には400人がいたんです」。近くの宜野湾市嘉数に住む元教員伊波義雄さん(83)が解説してくれた。
 

ガマ
 

 1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸する前、戦禍を逃れようと嘉数地区の住民はこのガマに避難した。6歳の伊波さんも家族で身を寄せていた。

 外の雨が流れ込んでいるのか、ザーッという水音が響く。ペンライトを頼りに暗闇を進むと、陶器のかけらが見つかった。「(戦争)当時のものですよね」。同行した沖縄国際大大学院2年の石川勇人さん(23)がつぶやく。戦争体験者の聞き取りを続けていて、伊波さんとは2年前にも一緒にガマに入った。
 

戦争時に避難したチヂフチャーガマの中で、当時の状況を語る伊波義雄さん。左は同行した石川勇人さん=5月27日、浦添市

 母を早くに亡くし、父と兄弟、もうすぐ2歳になろうとしていた妹のミヨ子さんと避難した伊波さん。ガマの中は「集落の人もみんないて楽しい感じ。米軍が弾を撃つ音も聞こえたが、怖くなかった」。小学校の入学式に用意していた制服を4月1日から身に着けた。

 米軍の攻撃が激化し、日本兵に「住民は(沖縄本島)南部に移動して」と告げられたのは翌2日。伊波さん一家は6日、親戚と一緒にガマを出た。残ったのは、体が不自由な人やお年寄りら約30人だった。

 一家が南部に向かった後、米軍はガスを噴射し、ガマにいた多くの住民が犠牲に。「僕らが南部に出発する時、みんな入り口まで出て『元気で』と見送ってくれてね。忘れられない」。伊波さんはガマを後にした車中で「本当はあまり来たくなかった」と漏らした。
 

遺体
 

 伊波さん一家と親戚は米軍の艦砲射撃を避けて昼は木陰や壕に隠れ、夜になると使われていない線路沿いを歩いた。

 77年前を想像しながら、車で浦添市から那覇市に入り、さらに豊見城市へ渡る真玉橋(まだんばし)で降りた。南部へ向かう住民と日本軍が交差し、米軍の激しい機銃掃射に遭った場所だ。あの日、伊波さんが目の当たりにしたのは道を覆い尽くすほどのたくさんの遺体だった。
 

戦争中最後に避難した壕の前で手を合わせる伊波義雄さん=5月27日、糸満市

 「兵隊も住民も、歩けないくらい遺体があった。首がない赤ちゃんをだっこした母親に、誰も声をかけない。自分の命を守るのでみんな必死だったんですね」

 横たわる遺体を踏みながら歩いた伊波さん。「怖さも何もなくどうしたらこうならないか考えていた。戦争は、人間が人間でなくなる」。ウクライナでも同じ光景が広がっていると思うと、心が揺さぶられるという。

 「体験は何度も聞いていたけど、実際に現場に立ち『この場所なんだ』と実感した」と石川さん。真玉橋周辺は今、巨大な交差点となり多くの車が行き来する。「あの時からは想像できない。平和のありがたさを今、かみしめています」。橋を渡る伊波さんに、石川さんがそっと寄り添った。
 

最期
 

 真玉橋から南に約10キロの糸満市国吉に、一家が最後にたどり着いた壕があった。避難途中に爆弾で親戚3人が亡くなり、伊波さんもやけどを負った。着ていた制服は、ぼろぼろになっていた。
 

 6月18日、壕の中でミヨ子さんが泣き出し、見つかるのを恐れた日本兵が殺そうとした。「家族一緒に殺してくれ」と父が懇願し、並んで座らされた。日本兵が刀を振りかざした瞬間、別の兵隊が飛び込んで来て難を逃れた。だが翌19日、米軍が壕にガスをまき、一家は投降して捕虜に。倒れたミヨ子さんはその後、死亡が確認された。

 入り組んだ路地の集落に、当時の面影はない。草いきれが立ちこめる空き地の一角に、月桃の葉が生い茂っていた。「ここが壕の入り口のはずだ」。伊波さんの指さす先は草木で覆われていた。周囲で尋ねる伊波さんに、近所の男性(87)が足を止め「そこに壕があった。入り口は3カ所」と教えてくれた。記憶とぴったり重なった。

 おもむろに手を合わせた後、伊波さんは「ミヨに報告していた」と明かした。家族みんなでかわいがった小さな妹。「77年も亡くなった場所が分からずかわいそうだった。これで供養できる」

 焦土と化した沖縄では、どこで最期を遂げたか分からない人が大勢いる。伊波さんも、ミヨ子さんのことをずっと気にかけてきた。「また来ましょう」。石川さんの言葉に、何度もうなずいた。

 教員を退職後、地元で平和ガイドとして活動する伊波さん。当初は真玉橋の光景を思い出し、眠れないこともあった。石川さんは「悲しい体験と距離を取っているだけで、今もつらくないわけではない」と推察する。

 身を削る思いで語り続けるのはなぜか。「二度とあんな戦争を起こしてはいけない。戦争をするのも人間なら、やめるのも人間なんですよ」。伊波さんの答えは揺るがない。「僕らは戦争体験を直接聞ける最後の世代。自分たちなりに伝えていきたい」。こう決意する石川さんを「頼りになる後輩だ」と笑った。

(共同通信)