子どもだけで米軍の下へ 「捕虜になれば助かる」信じ下山 現ムーンビーチ近くの米陣地目指す 恩納 <あの日 生かされて>6


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石川岳から米軍の陣地へと下りていった様子を語る米須重男さん=6月9日午後、恩納村前兼久

 10歳前後の子ども数人が、投降を意味する白い布をくくりつけた竹の棒を持ち、石川岳を下りて行った。その中の1人が当時10歳だった米須重男さん(87)だった。一緒に避難していた祖父母と弟を石川岳に残し、現在のムーンビーチ入り口辺りにあった米軍の陣地を目指した。怖さはなかった。「捕虜になれば助かる」。そう信じていた。

 1945年3月下旬から始まった空襲で、米須さんが住んでいた恩納村前兼久集落の家はほとんどなくなっていた。周辺の住民や中南部からの避難民は海の近くの自然壕を転々とし、米須さんらは徐々に石川岳へと追い込まれていった。

 石川岳の北にある恩納岳では、米軍と日本軍の激しい戦闘が繰り広げられ、山中を通り抜けて山原へと逃げることはできなかった。海岸は4月1日に上陸した米軍が各所に陣地を構築していた。食料は底を尽きかけており、生き延びるためには米軍の下へ行くしかなかった。

 白い布が抵抗する意思がないことを示すことは、屋良飛行場(現嘉手納飛行場)から石川岳に逃げて来ていた美里村石川(現うるま市石川)出身の軍人が住民に教えていた。国外の戦地にも行っていたという軍人は「日本は負けている。この戦争は早く捕虜になると助かる」などと話していたという。大人たちはその言葉を信じた。米須さんは「『どうにか子どもだけでも助けよう』という気持ちで自分たちを行かせたんだろう」と意図を受け取り、子どもたちだけで足を踏み出した。

 陣地に着くと、米兵がCレーション(野戦糧食セット)の中に入っていたチョコレートを口にして安全であることを示してから差し出してきた。「アメリカは本当に殺さないんだ。捕虜になれば食べ物ももらえる」。希望が見えた瞬間だった。

 米須さんらは石川岳へと戻り、残っていた大人たちに「大丈夫だから早く下りて」と呼び掛けた。再び米軍陣地へと向かい、保護された。陣地では恩納村谷茶に逃げて先に保護されていた母たちと再会することもできた。「あの時アメリカの所に行っていなかったら、食べ物もなくなって生きていられなかったと思う。早く捕虜になってよかった」と振り返る。

 その後、羽地の収容所で1年半ほど過ごした。収容所ではマラリアや栄養失調で毎日たくさんの人が命を落としていくのを目の当たりにした。「戦争は弾に当たって亡くなる人だけが犠牲者じゃない。戦争を二度と起こさないためにも、話し合いで平和を実現してほしい」。力を込めて訴える。
(嶋岡すみれ)