石川で生活後、屋慶名へ 森根昇さん(5)捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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現在の南栄通り付近=うるま市石川

 1945年4月3日、勝連半島に進攻した米軍に捕らわれ、与那城村(現うるま市与那城)の薮地(やぶち)島のガマを出た森根昇さん(81)=うるま市=の家族はしばらく屋慶名集落内で過ごしていました。

 4月10日、勝連村(現うるま市勝連)の津堅島に上陸した米軍と日本軍の間で激戦になります。若い島民も戦闘に駆り出されました。「屋慶名の人たちは戦争になっている津堅島の様子を、現在の海上自衛隊のある場所(うるま市勝連平敷屋)から見ていました」と森根さんは話します。

 米軍は6月、屋慶名を含む与那城村民に対し、具志川村(現うるま市)高江洲、川田への移動を命じます。勝連村や宜野湾村、美里村の住民も集まってきます。この地域は後に前原地区と呼ばれるようになります。その頃の思い出があります。

 「走っているうちに転んで腕を骨折してしまいました。米軍に治療してもらい、そうめん箱の木でギプスをしていました」

 屋慶名の人々は11月には帰郷しますが、森根さんは一時、石川市(現うるま市石川)の南栄通り付近で暮らしました。父の廣生(こうせい)さんは敗戦後の食料対策のために設けられた東恩納農事試験場で働きました。森根さんは石川でウサギを養っていたことを覚えています。

 森根さんは石川で1年半ほど過ごした後、屋慶名に戻りました。