7歳、1人で戦場を逃げる 重くて捨てた手りゅう弾 無心で歩き、つないだ命<あの日 生かされて>7


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家族と離ればなれになり、1人で逃げた沖縄戦の体験を語る新垣徳盛さん=17日、中城村和宇慶

 沖縄戦初期の激戦地だった中城村和宇慶の新垣徳盛(とくせい)さん(84)は、“鉄の暴風”をかいくぐりながら、家族で南部へと避難した。途中、次々と家族が離ればなれになり、最終的にたどり着いた摩文仁村(現糸満市)でたった1人になっていた。当時7歳。自らの歩みで死から免れた。

 1945年4月1日に沖縄本島西海岸の読谷村に上陸した米軍は、わずか数日で東海岸の中城村まで侵攻していた。日本の第32軍は和宇慶に強固な陣地を築いて応戦し、周囲は激戦となった。

 新垣さんは家族と共に壕に隠れていたが、戦況悪化で避難を決意。闇夜を走り、気付けば一番下の弟と母がはぐれていた。祖母、叔父、妹3人と南へ向かい、大里村(現南城市)、東風平村(現八重瀬町)、真壁村(現糸満市)へと移動した。艦砲射撃に機銃掃射、爆弾…。避難すればするほど米軍の攻撃は激しさを増していった。

 真壁村新垣に滞在中、祖母が爆弾の破片に当たり歩けなくなった。叔父は「(新垣さんは)長男だから1人でも助からないと」と言い、祖母と妹たちをその場に残し、新垣さんを連れてさらに南に向かった。

 叔父は農林学校に通っていて当時は10代半ば。「米軍に捕まれば火あぶりにされる」と話していた。2人で夜通し死体の上を歩き、たどり着いたのが摩文仁だった。ガマにいた日本兵から、叔父は手りゅう弾を二つもらった。「捕まったらどうせ殺されるから、これを引っ張って死になさい」と、一つは新垣さんに渡した。その後、叔父は「泳いでやんばるまで行く」と言い残し、海に消えた。

 1人になり、手りゅう弾をポケットに入れたが、重みで歩きづらく、すぐに捨てた。

 叔父が消えて数日後、崖下のガマに隠れていると、日本語で投降を呼び掛ける米軍の声が聞こえた。日本兵は「デマだ」と言って一緒に隠れていた住民の投降を制止し、外に出ようとする住民を撃ち殺していた。

 新垣さんは体力の限界を迎えていた。ままならない思考で夜中にガマを飛び出すと、近くにいた住民も続いて投降した。背後に銃声を聞いたが、弾は当たらなかった。

 米軍に収容された後、はぐれた母と弟、真壁村に残した妹1人と再会した。祖母と2人の妹はどこで亡くなかったか分からず、戦後、付近の土を持ち帰って墓に入れた。叔父はどうなったのか分からないままだ。

 新垣さんは「何も考えず、ただ歩いていた」と、自身の戦争体験を振り返る。無心で歩くことにより、手りゅう弾による「自決」からも、日本軍による住民虐殺からも逃れていた。
 (稲福政俊)