沖縄県八重瀬町与座の德森稔さん(82)は息子の和彦さん(48)と5歳と2歳の孫と一緒に23日、平和の礎を訪れた。稔さんは沖縄戦当時5歳。家族で戦火に追い詰められ、兄の隆重さんを亡くした。
自宅のあった具志頭村(現八重瀬町)は、沖縄戦で日本軍が最後の防衛線を敷いた場所に当たる。米軍の猛攻撃の巻き添えとなり、多くの村民が犠牲になった。稔さん一家も巻き込まれた。山に避難していたが、米軍の火炎放射で「木も何もかも焼かれ」、逃げる途中、隆重さんが命を落とした。一家は南端に追い詰められ、崖下の海に近い自然壕に入っていた。「海から戦車が来て」、米軍に捕らわれた。通訳には「大丈夫だから、命助かるから」と言われ、そのまま久志村(現名護市)の大浦崎収容所に連れて行かれたという。「戦争はもうやってはいけない」と語る。
23日は毎年、息子と孫たちと一緒に平和の礎を訪れる。上の孫は5歳で当時の稔さんと同じ年齢だ。息子の和彦さんは「(息子たちに)どれだけの人が犠牲になったのかどれだけ悲惨かを知ってもらいたい。戦争してはいけないという意思が平和につながると思う」と話す。
沖縄戦から77年だが、戦争や紛争はなくならずウクライナでも戦争が続く。和彦さんは「ウクライナは人ごとではなく、沖縄とつながっている。少しでも早く戦争をやめて平和になってほしい」と願った。
(中村万里子)