父は召集され、戦争の雰囲気に 森松長孝さん(1)山の戦争<読者と刻む沖縄戦>


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 沖縄市の森松長孝さん(88)から戦争体験をお聞きしました。米軍上陸時、本部町大嘉陽の山中に避難し、飢えに苦しみました。米軍に捕らわれた後は大浦崎の収容地区に移動します。


 

森松長孝さん

 森松さんは1933年、本部町伊豆味の嶽之当(たきんとう)と呼ばれる地で生まれました。2歳の時、祖父の弟の養子となります。「伊豆味から大嘉陽に行きました。大嘉陽の真部山は戦闘が激しかったところです」と森松さんは語ります。

 大嘉陽は現在、桜並木で知られる八重岳の西側に位置します。真部山には日本軍の陣地が置かれ、日米両軍の激戦がありました。

 森松さんは現在の本部町役場の敷地にあった本部国民学校に通いました。山道を歩いて登下校しました。大雨の日は学校を休むこともありました。

 「雨が降ると山から水が集まってきて家の前を川のように流れていく。学校に行くには、これを越えなければならなかったのです」

 当時の食事はイモが中心でした。町内にもお米を食べている家があったといいます。満名川の河口付近の低地にはたーぶっくわ(田んぼ)が広がっていました。「うらやましかったですね」と森松さんは語ります。

 戦前、森松さん含め6人のきょうだいがいました。父は召集され、満州(中国北東部)に行きます。「昭和18年からは本部でも戦争の雰囲気が出てきました」と振り返ります。