音楽プロデューサーの喜屋武幸雄(80)は沖縄工業高校機械科の11期。愛称はオユキ。沖縄ロックの草創期を引っ張った。「今年、80歳になったよ」と笑顔を見せる。
1942年生まれ。コザ(現沖縄市)の印象が強いが、出生地は那覇市前島。44年の10・10空襲で焼け出され、一家は母方の祖父母がいる宜野座に避難した。戦後、コザのビジネスセンター通り近くで暮らす。50年代のスクラップブームの中で財を築いた父は料亭を開いた。喜屋武は「センターのワラバー」として育った。
「米兵の靴磨きをしたり、チューインガムを売りつけたりしてお金を稼いだ」。小中学生の頃、ジュークボックスから流れてくる米国の音楽に親しんだ。後にロックバンドを組むカッチャンこと川満勝弘と出会ったのもその頃だった。
58年、父の勧めで沖縄工業高校に入学した。入学時は背は低く、周囲の生徒が大人に見えた。バンカラ風な生徒が幅を利かす校風の中で喜屋武は「バンカラの元締の生徒の後ろからついて歩く」ような目立たない生徒だった。
卓球部や文芸部で活動した喜屋武は2年になり音楽に目覚める。友人と共にテレビ番組やラジオ番組に出演する。ジュークボックスで流行の音楽を聴いてきたおかげで歌には自信があった。
61年、高校を卒業した喜屋武は集団就職で沖縄を離れ、都会の音楽文化に触れた。飲食店で目にした「沖縄人、朝鮮人お断り」の貼り紙に憤慨もした。64年に帰郷し、川満らと沖縄ロックの源流となるロックバンド・ウィスパーズを結成する。ロックミュージシャン喜屋武の歩みはここから始まる。ベトナム帰りの米兵の前でも演奏した。74年結成のマリーwithメデューサは全国から注目された。
現在は沖縄県ロック協会の事務局長。沖縄市内の事務所で沖縄ロックの成り行きを見つめる。
県指定無形文化財「琉球漆器」保持者で漆芸家の前田國男(78)は12期。1943年、自然豊かな大宜味村謝名城に生まれた。兄は戦後初の漆器デザイナーとして沖縄の漆芸界をけん引し、首里城復元にも携わった故前田孝允。國男が漆芸家の道に進んだのも兄の存在が大きかった。「謝名城を漆器の里にしたい」。孝允はよく國男に話していた。その言葉は独創的な漆芸作品を作り続ける原動力でもあった。
喜如嘉小中学校を経て59年、漆器デザイナーとして活躍していた孝允の勧めで漆工科に入学し、寮に入った。電気がなかった大宜味での生活とは打って変わった高校では夜中も明るく過ごせた。そのかいあって高校時代は「人生で一番勉強した」。なんとなく沖縄工業に進学した國男だったが、気付いた時には奥深い漆器の世界にのめり込んでいた。
高校卒業後は兄と同じ琉球漆器の老舗「紅房」(2001年廃業)に就職したが、翌年には辞め、沖縄工業漆工科の助手となった。教壇に立つ傍ら、漆芸家として作品作りにも精力的に取り組み、68年には沖展で入選を果たす。翌年には孝允が主宰するアトリエに移り、「兄がデザインを手掛け、私は漆塗りなどの作業を担った」。当時、客の多くは米軍関係者だった。その後、1972年の日本復帰後は沖縄ブームもあり、観光客に飛ぶように売れた。だが、沖縄ブームが過ぎると漆器も売れなくなった。「このままではきょうだい飢え死にする」。75年に紅房に再就職。景気の波に翻弄(ほんろう)されながらも技を磨き続け、79年には沖展会員となり、県内で初めて日本工芸会西部支部展での入選を果たした。
県内外で実績を積む中、40歳になる直前、体調を崩し、人生を見つめ直した。85年、兄の言葉を実行するため拠点を大宜味に移した。それから37年。山の重なり、川のせせらぎは創作意欲を刺激する。「伝統を守りつつも新時代の漆芸作品を作り続けたい」。漆芸家の歩みは続く。
(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛、吉田健一)
(沖縄工業高校編は今回でおわり。次回から久米島高校編です)
【沖縄工業高校】
1902年6月 首里区立工業徒弟学校として首里区当蔵で開校
21年6月 県立工業学校となる
45年4月 米軍空襲で校舎全壊
48年4月 琉球民政府立工業高校として那覇市安謝で開校
52年12月 現在の那覇市松川へ校舎移転
72年5月 日本復帰で県立沖縄工業高校となる
2002年10月 創立100周年記念式典
14年8月 全国高校総体の重量挙げで宮本昌典が優勝
21年7月 写真甲子園で優勝