島から海外雄飛を夢見た少年 三線の技を磨き人間国宝に 久米島高校(1)から続く
琉球古典音楽の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の中村一雄(76)は1946年、具志川村(現久米島町)大田で生まれた。7人きょうだいの2番目である。
同年、久米島高校が開学した。米軍政下で久米島島長となった喜久里教文が高校創設を沖縄諮詢会に働き掛け、糸満高校久米島分校として認可されたのだ。
家族は小作農で生計を立てていた。久米島では当時、稲作が盛んだった。幼かった中村も懸命に両親を支えた。「僕は歩き出した時から畑や田んぼで働いていたよ」
暮らしは楽ではなかった。「島に残っていては一生貧乏のままだ」という気持ちにかられ、ブラジルの大地に自らの将来像を描くようになる。久米島高校の普通科に進むよう促す中学3年の担任に「僕はブラジル移住の目標がある」と返答した。中村は62年、久米島高校農業科に進んだ。
スポーツ好きで「剣道部を立ち上げたり、相撲を取ったりした」。短距離走は苦手だったが長距離走で活躍。高校3年の駅伝大会では区間賞を取った。
海外雄飛を夢見て農業科で学んだもののブラジルに渡ることはなかった。63年夏、パイン栽培が盛んな八重山で1カ月間の夏季特別実習を体験した。久米島でもパイン栽培が盛んになり、この年の11月には久米島でパイン工場が生まれた。「世の中が変わり始めた」と感じたという。
在学中の忘れがたい出来事がある。那覇と久米島を結ぶみどり丸の惨事で3人の生徒が亡くなったのだ。悲しい事故が中村の心に刻み込まれている。
卒業後の66年、村の農協に就職し、農家の生産物を委託販売する業務に携わった。当時、思いがけないハプニングに見舞われる。那覇で売るため農家から預かった9頭の牛を泊港で逃がしてしまった。「港のゲートに牛を結わえて夜の街で遊んだ。帰ってきたら鼻綱だけを残して牛は逃げていた。牛を探し回り、何とか捕まえた」
68年、琉球銀行に転職し、久米島支店の行員となった。その頃、手にしたのが三線だった。中村の父も自己流で三線をたしなんでいた。島に住む野村流の演奏家、野村義雄に師事し、琉球古典音楽の世界へ一歩を踏み出した。
74年、那覇の本店に異動し、知念秀雄に師事した。78年の南米公演では中村ら芸能訪問団は各国の県人から熱い歓迎を受けた。中村は若き沖縄伝統芸の担い手として舞台に立った。この体験は転機となる。「県人は涙を流し、喜んでくれた。『芸は生半可にはできない、魂を込めて弾かなければならない』と決意した」
その決意は2019年の「人間国宝」認定へとつながっていく。
島を離れて48年、故郷のことは忘れない。2010年に島への感謝を込め、第1回久米島古典民謡大会を始めた。独演集や独演会のタイトルには「あたら久米島謡心」と付ける。中村の心は今も久米島と共にある。
(編集委員・小那覇安剛)
【沿革】
1946年4月 糸満高校久米島分校として設立認可
48年1月 久米島分校が独立認可、久米島高校となる
49年3月 第1回卒業式、男子17人、女子28人卒業
58年4月 普通課程、農業課程、家庭課程を設置
62年10月 日本学校農業クラブ連盟全国大会に初参加
90年 農業科、家庭科の募集を停止。園芸科を設置
2014年4月 離島留学生受け入れ開始