【寄稿・ゴルバチョフ氏死去】「ゴルビー」が沖縄に魅せられ、語った未来 服部年伸・ゴルバチョフ財団日本事務所代表


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
稲嶺恵一知事(当時=左から5人目)、翁長雄志那覇市長〔左から4人目)らと懇談するゴルバチョフ氏(同2人目)

 20世紀の巨星がこの世を去ってしまった。彼のお母さんはウクライナ人、奥さんのライサ夫人もウクライナ人だ。ウクライナ、ロシア双方の国民の痛みが彼の病状をさらに悪化させたのは想像に難くない。

 2014年、彼はオバマ米大統領(当時)とプーチンロシア大統領に書簡を送り、ヨーロッパの平和、ウクライナの平和的環境保全を討議するため至急、首脳会談を開くよう呼びかけていた。そう、手遅れになる前に。

 しかし彼の提案は無視された。当時の副大統領は現在のバイデン米大統領で、彼の息子のハンター・バイデンは、既にウクライナで活発なビジネスをしていた。今日のウクライナ危機の予兆がそこに色濃く表れていたにもかかわらず、見て見ぬふりをして両首脳は歩み寄ろうとしなかった。

 理想を追い求めても現実を直視する目を持たない限り社会は破綻する。これが身をもって体感した彼の政治哲学だった。

 07年、エリツィンロシア大統領(当時)が死去した。葬儀の日、僕はゴルビーの日本での講演会の打ち合わせのため彼の事務所にいた。祈りをささげる彼の姿がテレビに映し出されていた。戻ってきた彼が僕にぼそっと言った言葉を鮮明に覚えている。

 「私たちは、彼の生存中には友人になれなかった。私が亡くなったらお墓が近いので彼の好きなウオッカを一緒に飲んで友達になるようにするよ」

 ゴルビーの表舞台最後の瞬間は、エリツィンに徹底的に攻撃されたものだった。にもかかわらず、この時の彼の目には光るものが無数にあった。

 沖縄に関心があった彼は1回目の訪問でさらに興味を抱き、2回目の訪問で沖縄の魅力にどっぷりつかり、3回目には沖縄の未来を語るまでになっていた。

 愛を込めてゴルビー、僕の机の上には9月20日の面談に向けてゴルビーに催促されたゴーヤー茶があふれている。いつもなら、そういつもなら、にこにこ顔で「アリガト、アリガト」と言いながら「スプートニク」(衛星)と彼が呼ぶ歩行器と一緒に姿を見せる、あの人…。本当にありがとう、ゴルビー!

 ゴーヤー茶だけじゃなくて沖縄土産をいっぱい持っていくよ。ライサさんに沖縄の魅力を教えてあげて。さよならは言わない、ただありがとう。