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3カ月で途絶えた学校生活…戦場動員、収容所経て再会、高校生ストも 瀬名波栄喜さん 北部農林高校(1)<セピア色の春―高校人国記>


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新たな校舎で戦禍を生き延びた友人と再会 戻らぬ学友も…瀬名波栄喜さん 北部農林高校(1)から続く

 

1902年の創立から120年の歴史を刻む北部農林高校=名護市宇茂佐

 瀬名波栄喜(93)は1928年11月、久志村(現名護市)三原で生まれた。小学生の頃は体が小さく、体育の授業は苦痛だったが成績は良かった。

 名護の県立第三中学校への進学を希望していたが、父は北谷村(現嘉手納町)の県立農林学校への進学を勧めた。就学期間が5年の県立三中より3年で卒業できる農林学校の方が家計への負担が軽かった。「三中に通っていた先輩が盛んに私を誘ったが、父は農林学校のレールを敷いていた」

 入学は44年。1902年、甲種国頭郡各間切島組合立農学校として発足した県立農林学校最後の入学生(43期)だった。寮生活では同室の先輩が生活態度を厳しく指導した。

 「言葉遣い、礼儀作法を徹底的に仕込まれた。寮生活は人間形成の場だった」

 実践的な英語を指導した安里源秀(第3代・6代琉球大学長)が思い出深い。しかし、充実した学校生活は3カ月で途絶えた。陣地構築に駆り出されるようになり、授業どころではなくなった。軍事教練に励む瀬名波自身も軍人にあこがれた。「軍国主義が徹底され、『大東亜共栄』『八紘一宇』という考えに全く疑問を感じなかった」

 米軍の本島上陸前、実家に戻っていた瀬名波は家族と共に山中をさまよった。米軍に捕らわれ、収容地区に設けられたハイスクールなどで学んだ後、北部農林高校の2年生に編入した。

 学友と再会し、共に学ぶことに喜びを感じたが、戦禍で命を落とした学友の最期を知り、がく然とする。

 名護の新たな学びやで生徒に慕われている教師がいた。名護市嘉陽の出身で、英語を教えていた宮城敏男である。「顔がアメリカ大統領リンカーンにそっくりで、あだ名も『リンカーン』。歩きながら英字雑誌『ライフ』を読む姿を覚えている」

 開校当時、併設だった国頭農事試験場との間で対立が起きたという。「試験場は生徒を使って農地を開拓したかったようだ」と瀬名波は語る。従業員のように生徒を扱う姿勢に不満を抱いた3年生が46年夏、ストライキを起こした。「戦後沖縄初の高校生のストだったのではないか」

 北部農林を卒業した瀬名波は沖縄外語学校や琉球大学で学び、米国へ留学。帰郷後、琉球大学で教えた。名桜大の創設にも関わり、2006年に学長に就任した。現在は自身の沖縄戦体験を踏まえ、戦場に動員された学徒の体験継承や首里城地下の32軍司令部壕の保存・公開を求める運動に力を注いでいる。

 44年に県立農林に入学した瀬名波ら43期生は215人。そのうち21人が戦争で命を失った。共に寮生活を送った友も犠牲となった。

 「私は沖縄戦を抜きにして何一つ語ることはできない。生きている限り、私の意識から沖縄戦が消えることはない」

 瀬名波は今も、亡き学友の面影を見つめている。

(敬称略)

(編集委員・小那覇安剛)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編