【オスプレイ配備10年まとめ】沖縄の政治潮流の転換点となった「建白書」と「オール沖縄」 続く抗議と民意無視


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 沖縄配備から10年が経過した垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ。米軍普天間飛行場に24機が配備される海兵隊仕様機のほか、空軍仕様、海軍仕様も外来機として県内に飛来。自衛隊導入機の訓練までも浮上している。「欠陥機」と指摘される同機種がもたらす事故の危険や騒音被害が県民にのしかかる。


「建白書」に民意結集 沖縄政治潮流の転換点

 安全性への懸念が根強い中で、MV22オスプレイの普天間飛行場への配備を強行する日米両政府の姿勢は、県民の強い反発を生んだ。オスプレイ配備撤回を要求する「建白書」に全41市町村の首長・議長や各種団体の代表らが署名・押印。保革の構図を脱して結束した枠組みは「オール沖縄」と表現されるようになり、沖縄の政治潮流の大きな転換点となった。
 

オスプレイ配備撤回を訴えてパレードする参加者ら=2013年1月27日、東京都中央区銀座(花城太撮影)

 配備直前の2012年9月に宜野湾市で開かれた超党派の県民大会には10万1千人が参加し、オスプレイ配備反対と、普天間飛行場の閉鎖・撤去を求めた。

 県民の反対を押し切る形で海兵隊は12年10月、オスプレイを沖縄に配備する。県民大会実行委員会や県内市町村長らは13年1月に上京し、配備撤回と普天間の県内移設断念を求める「建白書」を当時の安倍晋三首相に提出した。上京したメンバーがオスプレイ配備撤回などを求めて銀座をデモ行進した際には、「嫌なら日本から出て行け」などと罵声を浴びせられる場面もあった。

 一方、当初はその一角を担っていた自民党県連や自民党所属の県選出国会議員らは、党本部の圧力などを受けて普天間の県外移設の公約を取り下げている。

 配備当時の仲井眞弘多知事は「オスプレイの配備が普天間飛行場の危険性を増大させることは明らか」と強固に反対している。配備後10年間にわたって米軍が県内でオスプレイ運用を続ける中、その後の翁長雄志県政、玉城デニー県政も沖縄配備撤回を繰り返し求めている。

(塚崎昇平)


住民の思い届かず 繰り返される地元の抗議

 【宜野湾】1日に米軍普天間飛行場へのMV22オスプレイ配備10年を迎える宜野湾市では、市長の反対声明や市民らの反対運動が繰り広げられてきた。これまでの10年を振り返る。

オスプレイ配備反対宜野湾市民大会に詰め掛けた参加者ら=2012年6月17日、宜野湾市海浜公園屋外劇場

 配備まで4カ月を切った2012年6月。宜野湾海浜公園で開かれたオスプレイ配備に反対する市民大会には5200人が集まった。実行委員長を務めた当時の佐喜真淳市長は「安全性が懸念されるオスプレイ機の配備を、日米両政府に対し直ちに中止するよう求める」と明言。飛行場固定化の懸念を強く訴えた。しかし市民の思いは届くことなく、10月にオスプレイ12機が配備された。

 翌13年、米軍はオスプレイの追加配備を発表。発表を受け、同年7月に市や市議会など市内各種団体が共同声明を発表し、「市民はこれ以上の基地負担を断固として拒否する」と計画撤回を求めた。しかし翌8月に計画通り追加配備された。

 名護市安部の海岸への墜落事故などもあり、配備撤回を求める運動は続いた。飛行場ゲート前では、連日市民の抗議行動が繰り広げられた。

 配備から5年がたった17年、当時の佐喜真市長は「普天間飛行場の一日も早い返還という原点回帰を訴えていきたい」と明言。18年に初当選した松川正則市長も、飛行場の早期閉鎖・返還と共に、オスプレイの半機程度を県外移転するよう訴えている。今年8月には、米空軍がクラッチの不具合を理由に空軍仕様のCV22オスプレイを飛行停止にしたことを受け、市民らが普天間飛行場ゲート前でMV22の飛行停止を求める抗議をした。

 (石井恵理菜)


識者談話 鳥山淳氏(琉球大教授) 歴史知る機会積み重ねて

 沖縄には宮森小米軍機墜落事故や沖縄国際大ヘリ墜落を経験した戦後史がある。2010年には普天間飛行場の県外・国外移設を求める超党派県民大会も開かれた。普天間が撤去されない中、12年に日米両政府が危険性が無視できないオスプレイ配備を強行した。二重三重の基地負担に県民は、強く反発した。

 13年に沖縄側が日本政府に提出した建白書はオスプレイ配備撤回と普天間県内移設断念というまっとうな要求をした。問題は政府が10年間、要求に一切応えなかった点だ。

 米軍再編に伴う06年の辺野古新基地建設での現行案決定で、日本政府は沖縄に日米合意を「飲め」と迫った。稲嶺恵一県政は「政府との協調」で問題解決を図ってきたが、無に帰した。

 建白書提出は、14年の翁長雄志県政誕生に連なる。翁長氏は、問題解決のための「政府との協調」を唱える代表的存在だった。その翁長氏が正面から政府を批判するに至った経緯があるからこそ「オール沖縄」という言葉が県民に届いたのだろう。基地問題解決は政府の責任だが、今の政府はその意思と能力を失っているように見える。

 基地問題に対する政府の責任と沖縄の訴えは、常に歴史を踏まえて認識されなければならない。歴史を再確認し、歴史を知らなかった人たちが知る機会を積み重ねる取り組みが不可欠だ。

(沖縄戦後史)