prime

沖縄戦で家族を失いさまよう 「戦争は国が始めたこと」基地の街で眼鏡店続ける 花城太郎さん(84)<復帰50年 私のライフストーリー>1


この記事を書いた人 Avatar photo 瀬底 正志郎
復帰前に開業した「アロハ眼鏡店」を今も営む花城太郎さん=2021年12月20日、金武町

 「戦争は感覚をまひさせるのか。不思議なことに悲しいとも怖いとも思わなかった」。金武町金武の「アロハ眼鏡店」を営む花城太郎さん(84)=浦添市出身=は、沖縄戦で目の前で次々と両親やきょうだい計6人が息絶えていった瞬間を振り返る。戦後、日本軍の予備役から沖縄に戻ってきた長兄とコザ市(現沖縄市)で「アロハ オプティカル(アロハ眼鏡店)」を開業した。「戦争は国が始めたことだ。米兵に個人的な恨みはない」と今も米軍キャンプ・ハンセン前の“基地の街”で眼鏡を磨く。

 

■1人取り残される

 1944年の10・10空襲後、浦添国民学校に通っていた太郎さん(7)=当時、以下同じ=は父蒲戸、母カマド、次女ツル子(9)、三男弟正英(5)、三女和子(3)、四男で末っ子の弟正順(1)の家族6人で那覇市の識名方面に避難した。識名で一家は墓の中に身を隠した。

 和子と正順は墓の前に出て遊んでいたとき、突然艦砲射撃の音が鳴り、近くの木に当たって跳ね返った砲弾で吹き飛ばされ亡くなった。

 2人の遺体を近くに埋葬した両親だが、その4、5日後、砲撃で崩れた石材の下敷きになった。残された3人の子どもたちは隣の墓に移動して息を潜めたが、ツル子と正英も次々に米軍の攻撃で絶命した。太郎さんも脚にけがを負った。

 1人残された太郎さんは、脚の痛みが激しく、四つんばいになって食料を探すのが日課になった。食料を探している時に拳銃を持った米兵に出くわした。殺されると思い洞窟の中に転がり込んだ。日本兵が隠れていると思ったのか、米兵は手りゅう弾を投げ込んできたが、煙が充満する中なんとか生き延びた。 

 

花城さんが兄と共に「アロハ眼鏡店」を営んでいた復帰前のビジネスセンター通り=沖縄市

■兄と再会

 「誰もいないのか」。それから2日後、沖縄の男性と日系人の女性が訪ねてきて質問された。「みんな逃げた」と答えた。車に乗せられ着いたのは、玉城村(現南城市)百名の収容所。それから北部の孤児院で数カ月間過ごし、親類に引き取られた。

 県外から戻ってきた8歳年上の兄正安に再会できたのは1946年。正安は戦後10年以上、米軍基地内で働いた。太郎さんは大阪に住む長女の誘いでしばらく大阪で暮らしていたが、コザ市のプラザハウスの眼鏡店で働いていた正安が独立する際に呼び戻された。照屋の通称「黒人街」で兄と共に58年ごろに「アロハオプティカル」を開業した。

 主にドイツ製などの眼鏡を販売した。1本30~40ドルほどで、当時の県民にとっては高価だったため、客のほとんどが米兵だったが、中には「かけてみていいか」と眼鏡をかけ、そのまま店外に出て盗まれることもあったという。

 アロハ眼鏡店は胡屋のビジネスセンター(BC)通りへの移転を経て、80年ごろに現在も運営する金武町に店舗兼住宅を構えた。

 

■平和の礎

 兄正安が他界して、太郎さんは今も一人で店を切り盛りする。昨年12月下旬、新型コロナウイルスの感染が拡大する中、店の前をマスクをしていない米兵たちが歩いているのをたびたび目にした。一方で入店してくる米兵らは、マスクをし、入り口で手指を消毒する人がほとんどだという。「フレンドリーな米兵も多い。戦争は指導者が始めるものだ。兵士たちに罪はない」

 金武町に建てた墓には正安のほか、沖縄戦で死別した両親やきょうだいたちが眠るが、正安以外は遺骨はなく、まぶいぐみ(魂込め)した小さな石が入っている。糸満市の平和の礎ができて四半世紀がたつが、まだ訪れたことはない。

 「いつか子や孫と一緒に刻銘された両親やきょうだいたちの名前を見に行きたい」。両親やきょうだいの名前を口にし、懐かしそうな表情を浮かべた。
 (松堂秀樹)


◇  ◇  ◇  

 戦中戦後、復帰をへて、さまざまな困難を乗り越えてきた市井の人にこれまでの歩みを聞く。
 (随時掲載)