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「平和な島を取り戻したい」 戦争マラリアで家族と死別、陸自ミサイル配備反対 石垣の歴史を体現  山里節子さん(85)<私のライフストーリー>6


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
時に照れ笑いを浮かべながら、自身の人生を振り返った山里節子さん=4月14日、石垣市の琉球新報八重山支局

【石垣】戦争マラリアで家族と死別、米国の軍事地質調査に協力、新石垣空港の海上建設阻止、沖縄初の国際線スチュワーデスになったことも―。石垣市登野城の山里節子さん(85)は石垣の歴史を体現するかのような人生を歩んできた。島の先人が守り育んできた「自然」「言葉」「精神文化」を大切にしながら。中でも「平和」への思いはひときわ強い。「形あるものは必ず壊れる。それが戦争の形ならみんなで壊そうよ」。自身の人生を振り返り、時に鋭い視線で、時に柔和な表情を織り交ぜ、静かに言葉を紡いだ。

1937年8月、山里さんは旧石垣町登野城で生まれた。物心ついた41年には太平洋戦争が開戦した。軍歌を歌い「軍国少女ならぬ軍国幼女だった」。女の子より男の子と遊ぶことが多く、逆さにした傘の骨組みを高射砲に見立てて「兵隊ごっこ」をして走り回った。付いたあだ名は「ビギッチャ(おてんば)」。活発な子どもだった。

 ■祖父、母、兄、妹の死

 

母のトミエさん(中央)と弟の修さん(左下)と6~7歳ごろの山里節子さん=1944年ごろ(山里さん提供)

家族は祖父母、両親、兄、山里さん、弟、妹の8人。43年12月、15歳くらいだった兄の秀雄さんは海軍飛行予科練習生(予科練)の2次試験を受けるため盛大に見送られて湖南丸に乗船。那覇港から鹿児島奄美大島に向かったが、米軍の潜水艦に撃沈された。後日、兄の遺骨が納まっているとされる箱の中を見ると「枝サンゴが三つ」入っているだけだった。

45年2月、山里さんは母と妹らと共に屋敷内にあった防空壕に避難した。だが、「戦争に勝つために」勝代と名付けられた生後4カ月の妹は壕の中で母に抱かれたまま、息絶えた。栄養失調だった。「あの子が一番ふびん。死ぬために生まれて来たような感じで」。当時7歳の山里さんは兄と妹の死が理解できなかった。

同年、母トミエさんと祖父の用恒(ようこう)さんが戦争マラリアで相次いで亡くなった。八重山地域では日本軍に山野に強制避難させられた住民を中心にマラリアがまん延し、島は阿鼻(あび)叫喚の状態となっていた。30歳ほどだったトミエさんは5月17日に息を引き取った。70代前半の用恒さんは戦後の8月21日に亡くなった。「大声で『あがよー』ってうなっていたけど、ピタッと止まった。祖母が島の言葉で『極楽してください』と別れの言葉を告げた」

 

■米の軍地質調査に協力

 

スチュワーデスとしてUSOAの制服を着た山里節子さん=1960年ごろ(山里さん提供)

戦後、地元の八重山高校に入学した山里さんは「無料で英語が習える」と聞き、米民政府の琉米文化会館に足を運ぶようになった。語学力を身に付け英語スピーチコンテストに出場すると、優勝した。「ノーモア沖縄、ノーモア広島と叫んだことを覚えている」。徐々に「反戦」「平和」への思いが芽生えていた。一方、家計は苦しく、経済的事情などで高校は3年の1学期で中退した。

ラジオ会社への就職などを経て、琉米文化会館の英語教師から地質学調査の助手の仕事を紹介された。米内務省所管の地質調査所の軍事地質調査だった。「ミリタリー」と記された書類が目に入ったが当時は「深く考えていなかった」。

調査所から派遣された地質学者のヘレン・フォスター氏や植物学者らと共に、55年5月から56年10月ごろまでの約1年半、島内を回った。岩石などをサンプリングしたりデータを書き込んだりした。その後、地質調査所の東京事務所(東京都北区王子)に移り、3年間助手を続けた。地元の人にしか分からない地図の詳細や地名の確認などを担った。

後にこの調査についてがくぜんとすることになる。85年、新聞報道で調査が軍事利用される危険性があることが報じられたからだ。「何回生まれ変わっても拭えるものじゃない」。この時の贖罪(しょくざい)意識が現在に至るまで山里さんの平和への思いをより強くしている。

東京での勤務を終えた山里さんは59年末から約半年間、那覇に滞在した。その際中学校時代の男性の元英語教師から、米国―沖縄間を結ぶ「USOA(ユナイテッドステイツ・オーバーシーズ航空)」のスチュワーデス(客室乗務員)を薦められる。「ただで世界旅行ができる」という男性の言葉に乗り応募。約100人の中から見事、最後の3人に選ばれ採用された。他の2人とともに国際線では沖縄初の客室乗務員誕生だった。だが、会社の経営悪化などで長くは続かず、3年で退社した。「メークをして、赤い口紅塗って、パンプス履いて来なさいと言われたけど、私には合わないね」と笑う。

 ■トゥバラーマ

陸上自衛隊石垣駐屯地(左奥の建物)開設に反対し、取材に来た韓国人(手前)と英語を使い、笑顔で話す山里節子さん(左)=3月12日、石垣市

80年代から90年代にかけて、新石垣空港の白保海上への建設に反対し、阻止委員会の事務局員として奔走した。島の豊かな自然を破壊されることが許せなかった。結果、住民の強い反対などにより海上案は撤回され、新空港は陸地に建設された。「私は建設そのものに反対だったから、半々の気持ちだね」

2016年には石垣市での陸上自衛隊配備に反対する「いのちと暮らしを守るオバーたちの会」を結成し、以来、会長を務めている。現在も毎週日曜日の午後4~5時の1時間、会のメンバーと共に市内の交差点などで、反対の意思を示し続けている。

開設した石垣駐屯地前やミサイルの弾薬搬入現場の港前などで、何度も島の平和を祈る「トゥバラーマ」をささげてきた。

「体調がきつい時もあるけど、(抗議)運動をやめようと思ったことはない。無意識だが、戦争体験と島の先人が築いてきた精神文化がバックボーンになっている」。病もある。足腰も弱った。それでも細身の体をつえで支えながら「平和な島を取り戻したい」との思いで、歩み続ける。
(照屋大哲)