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沖縄戦の記憶を苦に家族でブラジルへ 父の言葉に背中押され一線で活躍 ブラジル移民・赤嶺園子さん(82)<私のライフストーリー>7


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 日系移民200万人、日本への出稼ぎ20万人の南米ブラジル。同国最大の金融都市として知られるサンパウロ州の州都サンパウロ市で、西原村(現西原町)出身の赤嶺(旧姓・金城)園子さん(82)は、7年前に他界した夫・尚由さん=豊見城村(現豊見城市)出身=から引き継いだ人材派遣会社「ソールナセンテ人材銀行」を経営している。ブラジルに移り住んだのは1957年。沖縄戦の記憶から逃れようと、新天地を求めて両親を説得し、一家で移住した。「がれきの中から生活を立て直した両親に、ブラジル移住をさせてさらに苦労をかけてしまった」。一族の繁栄を喜びつつ、異国の地でゼロから再出発した両親の苦労を思うと今も胸が痛む。 (松堂秀樹)

1957年のブラジル移住後、農業や住み込みの家事手伝い、日本語教師などを経て人材派遣会社を経営する赤嶺園子さん(本人提供)

 ■炎に包まれる

 園子さんが生まれた西原村に44年、日本軍の飛行場が整備された。司令部が置かれた首里の攻防を巡り、西原は激戦地となることが必至だった。

 園子さんは、戦火を逃れるため羽地村(現名護市)の祖母宅に家族で身を寄せた。だが羽地村も空襲があり、園子さんは全身炎に包まれた。父・金城佑好さんがとっさに毛布で体を覆い、なんとか消し止めた。

 失神し、意識を取り戻したのは野戦病院のテント。「私は死ぬのですか?」と父に尋ねると「自分の命に代えても大事な娘は死なせない。頑張るのです」と励まされた。

 泣きながら痛みに耐えたという園子さんはやけどから回復し、戦後、西原小中学校に通い始めたが、満足に勉学に没頭できる状況にはなかった。学校の敷地は艦砲射撃ででこぼこになっていた。敷地を修復するため授業を短縮し、全校生徒で海砂を取りに海岸と学校を往復した。野原に散乱している戦没者の遺骨収集作業も課せられた。

 「誰のものとも知れない白骨化した遺骨を拾い集めながら涙を流した」

 西原村では住民の約47%に当たる5106人の村民が命を落とした。園子さんの家族も祖父母や叔父、叔母、姉の計5人が犠牲になった。

 焦土と化した西原村で父・佑好さんと母・ツルさんは「金城商店」を興した。実直な人柄で人を大切にする両親の経営は軌道に乗り、西原や那覇、美里、与那原に店舗を拡大。事業を軌道に乗せたことで一家は衣食住に困らない生活を送ることができるようになった。家業が忙しく、家政婦を雇うほどだったという金城家だったが、異国の地での再出発を決める。

 ■日本語教師に

 きっかけは、50年代にブラジルから一時帰国した知人の宮城幸信さんが金城家を訪ねたことだった。宮城さんによると、羽地村から移住した伯父の平良幸清さんがサンパウロ州西部のプレジデンテ・プルデンテで農園を経営し、経済的に安定しているという。「沖縄にいても戦争のことを思い出してばかりでつらい」。10代の園子さんの粘り強い説得に両親は根負けし、一家でブラジルに渡ることを決めた。

 57年5月21日。オランダ船舶チサダネ号に乗り込み、泊港を出発した。香港やシンガポール、南アフリカ共和国を経由し、52日後の7月12日、サントス港に到着した。

 先に移住していた父・佑好さんの姉を頼ってサンパウロ市の西約100キロに位置するソロカバ市近郊の農場に向かった。

 案内された家は地面にソファとテーブルが置かれた粗末な小屋だった。「沖縄ではどんなに困窮している家庭でもこれよりはましな住居だ。家族全員が肝をつぶした」(園子さん)。

 伯母の説明によると、伯父が病に伏したことで全財産を手放さざるを得ず、必要最低限の家屋や家具しかそろえられなかった。「愚痴を言っても仕方ない。与えられた環境で全力を尽くそう」。園子さんは母と共にジャガイモ畑で汗を流し、弟2人と妹2人はソロカバの学校に通い始めた。

 しばらくして、園子さんはポルトガル語習得のため、サンパウロ市で親類宅に身を寄せ、ポルトガル語講座のクラスに通い始めた。午前3時に起床し、ポルトガル語の自習をした後、家事を懸命にこなしたが「新参者」と、あざけられることもあった。

 その頃、父・佑好さんはサンパウロ市で家族が一緒に住める土地を探し求めていた。現在、サウーデ区の繁華街としてにぎわっている場所に土地を購入し、青果店を一家で営むようになった。佑好さんは(1)暴利をむさぼらず、数をさばいて利潤を上げる(2)どの店にも負けない良質で廉価な商品を提供する(3)お客さんに喜んでもらえるよう努力し、来店しやすい雰囲気と環境をつくる―ことを徹底し、来客に心を込めて「オブリガード(ありがとうございます)」と明朗な声であいさつすることを徹底した。

 やがて青果店は軌道に乗り、お得意さんが大勢できた。サンパウロ市の学校に転校した子どもたちも勉学に励みながら家の手伝いも積極的にこなした。

 「知識を磨き、励み、成長したい」。20代になった園子さんは、家業も安定してきたことから、國學院大学(東京)に留学することになった。文学博士の今泉忠義教授の下で国文法を学び、再びブラジルに戻った。

かつて日系人が数多く店舗を構えていたサンパウロの東洋人街。県人会館もこの一画にある=2008年、ブラジルのサンパウロ市

 ■憧れの土地へ

 転機が訪れたのは65年。サンパウロの日伯文化普及会(現・日伯文化連盟)で日本語の教師として採用されることになった。日本語を習得してほしいと五十音や漢字、カタカナだけでなく、動詞や助動詞、形容詞などの活用に慣れさせようとたくさん宿題を出す園子さんに、学生たちは「先生は勉強しないのになんで自分たちにはこんなに宿題を出すんだ」と苦情を申し立ててきた。

 「それでは私も勉強します」。園子さんはタウバテ市立総合大学法学部に入学し、夜間勉学に励みながら教壇に立った。そんな園子さんに感化され、学生たちも黙々と勉強するようになった。教え子たちは国費留学生や県費留学生として日本に留学し、帰国後は起業家や医師、弁護士、エンジニアなどとしてブラジル社会で活躍している。「教師冥利(みょうり)に尽きる」と園子さんは懐かしむ。

 両親の勧めで邦字紙の記者をしていた赤嶺尚由さんと結婚し、長男に恵まれた。「学問を修めれば貧苦にうちひしがれることも、他人に侮られることもない。自分を磨きなさい」との父の言葉に背中を押され、弟や妹たちも大学を卒業し、技師などとしてブラジル社会の一線で活躍した。

 金城家の子や孫はそれぞれ学問を修め、家庭を築いている。「お父さん、お母さん。私のわがままでブラジルに来て苦労させてしまいました。でも、子孫は皆、日々安寧(あんねい)に過ごすことができています」。園子さんは、他界した両親を思い、静かに手を合わせる。

笠戸丸移民を足跡調査

 世界のウチナーンチュ大会参加などのため沖縄に戻る園子さんにはライフワークがある。1908年に移民船「笠戸丸」で初めてブラジルの地を踏んだウチナーンチュたちの足跡をたどることだ。

 2008年の移民100周年の前後に集中してブラジル各地の子孫たちを訪ね歩いた。14年に沖縄出身者325人の出身市町村別名簿やブラジルでの生活記録、子孫からの聞き取りなどをまとめた書籍「笠戸丸移民未来へ継ぐ裔孫(えいそん)」を出版した。

 調査の過程で、日系歯科医第1号の金城山戸=南風原町出身=など社会的地位を築いた県人がいた一方、故郷の親族を助けたいと一生懸命コーヒー農園や鉄道敷設作業現場などで働いていた際に病気や事故などで、志半ばで亡くなった人たちが多いことを知った。

 「人知れず異境の土になってしまったウチナーンチュも多い。彼らを含め、先人たちの苦労があってこそ今の県系人社会の繁栄がある」。園子さんは調査などで墓地を訪れるたび、墓標のない無名の世界のウチナーンチュのマブイに手を合わせる。

 言葉や文化の違いを乗り越え、ブラジル社会に根を下ろした県系人。戦後、沖縄からはるか離れたブラジルに子どもたちを伴って渡り、懸命に働いて子孫の繁栄の礎を築いた両親の姿を重ね合わせる。「日本とブラジル、そして世界が平和であってほしい」。先人や父母らに感謝し、園子さんは言葉を紡いだ。