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洋裁一筋に家族や地域を支える 戦中、後の琉球政府主席・松岡さんに導かれ避難 呉屋ハル子さん(85)<復帰50年 私のライフストーリー>2


この記事を書いた人 Avatar photo 瀬底 正志郎
「88歳までは洋裁店を続けたい」と話す呉屋ハル子さん=金武町金武の呉屋洋裁店

 【金武】金武町金武で60年前から洋裁店を営む呉屋ハル子さん(85)=同町並里区出身=は戦時中、金武の山中に避難した。「照明弾が上がったら目標地点を決めて進もう」と暗闇の中で住民らに声を掛けたのは後の琉球政府主席で金武町出身の松岡政保さんだった。ハル子さんは戦後、コザ市(現沖縄市)の紳士服店(テーラー)に勤め、金武に戻って独立した。「88歳まで店を続けたい」。今も現役でミシン台に座り続ける。

 

 ■一家で山中に

 1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸した。金武町並里区の住民のほとんどは宜野座・久志方面に避難したが、ハル子さん一家は金武の山中に避難した。父仲田松英は防衛隊に召集されたため、母チヨときょうだい4人での避難だった。ハル子さんは9歳で、小さな背中にかつお節3本などたくさんの食料品の入った布袋を背負っていた。

 山頂の方でガヤガヤと話し声が聞こえた。「友軍だと思って安心したが、英語の分かる松岡さんが来て『米軍だ』と教えてくれた」

 同じ山中にいた松岡さんは「敵兵が来るから火を消しなさい。照明弾が上がったら明るくなるから、その時にどこまで進むか決めて。照明弾が落ちて暗くなってから進もう」と助言した。住民らは松岡さんの指示に従って慎重に歩いた。

 食料を背負って昼夜歩き続けたハル子さんだが、山中で何度も荷物が木々にひっかかった。「お母さん重いよ」。荷物を山に隠して歩き続けることになったが、朝になると一家は空腹に苦しんだ。「仕方ないのでまた取りに戻った」

 山を降りたきっかけは米軍のビラだ。まかれていたビラには「山を焼くから、降りてきてください」と書かれていた。

 

金武中学校2年生の頃の呉屋ハル子さん(右端)と家族、親類らの記念写真。母仲田チヨさん(左から2人目)から洋裁を習い、自分で制服を縫った=1950年ごろ、金武町(本人提供)

 ■コザで見習い

 集落に戻ると、ハル子さんの家は米軍の攻撃で瓦屋根が崩れ落ちていた。全壊した家も多かった。

 沖縄戦後、沖縄諮詢会(戦後初の中央政治機関)が米軍に掛け合い、家が崩れた住民のために「ツーバイフォー」(2インチ×4インチの断面)と呼ばれる米軍支給の材木を骨組みにした住宅が建てられた。ハル子さん一家もツーバイフォーの家で生活を立て直した。

 宜野座高校を卒業した54年、手に職を付けようと就職したのがコザ市照屋の通称「黒人街」にあった紳士服店(テーラー)だ。内職の洋裁などでハル子さんら子どもたちを育てた母の影響もあった。

 「給料は安かったが、職人の手作業を間近で見ることができた」。鹿児島出身の職人らの仕事は手際よく、金曜日に来店した米兵たちの体形に合わせ、那覇で仕入れた英国製の生地でスーツを仕立て、日曜日に引き渡した。

 1着40~70ドルほどの仕立ての良いスーツは一般県民が買えない高価なものだったが、米兵たちは「アメリカで買うより安い」と2、3着まとめ買いしていったという。

 

呉屋ハル子さん(前列左から2人目)とコザ市のテーラーの同僚ら=1955年ごろ、沖縄市照屋(本人提供)

 ■制服指定店

 独立して開業するため25歳で金武に戻った。「金武に住むなら」との条件をのんだ西原町出身の光男さん(87)と結婚。光男さんは個人タクシーの運転手として、ハル子さんは「呉屋洋裁店」で子ども服や婦人服を中心に製作し、家計を支えた。

 45年前、宜野座高校の要望で同校の制服指定店になった。「丈の長い学ランがはやるなど制服が乱れている時代だったので、学校も困っていたんでしょう」

 新入生からの注文が殺到する春先は多忙を極めた。「徹夜してもなんとか間に合わせた。入学式の朝、ここで着替えて学校に向かう子たちもいた」と懐かしそうに話す。

 宜野座高は今春、セーラー服、学ランの制服をブレザーに一新した。新しい制服の製作は断り、指定店としての役割を終えた。「これも時代の変化」と笑う。金武中のセーラー服は60年前から同じデザインで、今も指定店として注文を受ける。

 「洋裁が好きだからね。楽しみながら少しずつ続けるさ」。呉屋さんは使い慣れたミシン台の前に腰を下ろした。

(松堂秀樹)