<未来に伝える沖縄戦>壕に避難中 空襲で家畜失う 食料尽きソテツの芯食べる 與那覇セツさん


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 読谷村長浜で生まれ育った與那覇セツさん(81)=浦添市、旧姓・知花=は、5歳(戸籍上は4歳)の頃に沖縄戦を体験しました。與那覇さんは、家族とともに長浜の壕に身を潜め、戦後も本島中部での避難を続けました。與那覇さんの娘である新里和美さんを交えて、神森中学校2年の大城駿さん、島袋まりかさん、嘉数瑠菜さんが体験を聞きました。

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戦争体験を語る與那覇セツさん=9月14日、浦添市の神森中学校(大城直也撮影)

 《まだ幼かった與那覇さんが初めて戦争を目にしたのは、1945年の4月、米軍が沖縄本島に上陸したときのことでした。その頃、兵隊として駆り出された母の兄である伯父に会いに読谷飛行場に向かいましたが、そのタイミングで空襲警報が始まり、伯父には結局会えませんでした》

 父は戦前からいなかったので、私は母と祖母、曽祖母、障がいのある伯父、母の兄家族と一緒に暮らしていました。戦前は一人っ子だったのですが、3つ下のいとこが一人いて、よく遊んでいました。当時70歳くらいだった曽祖母が私のことを本当にかわいがってくれて、読谷村長浜の豊かな自然とともに幸せな生活を送っていました。生活に不自由はなく、戦前はおなかをすかせた日本兵がよく家にやってきて、祖母は彼らに芋をあげたりしていました。実は戦争で戸籍が焼けてしまった関係で、私の年齢は戸籍よりも1つ上です。当時は5歳でしたので、その記憶としてお話しします。

 戦争が始まる少し前のことですかね。母の兄は兵隊として駆り出されていたので、一緒に暮らしていなかったのですが、「読谷飛行場に来てるから会いにおいで」と声がかかり、家族全員で会いに行くことになりました。向かう途中の座喜味城跡のあたりでサイレンが鳴り、あぶしぐゎー(畑の草むら)に隠れて米軍の飛行機が過ぎ去るのを待ちました。以降、空襲警報が鳴り始め、これ以上先に進むのは危険だということで、飛行場に行くのは諦めて、住んでいた場所に戻りました。それっきり伯父に会えることはなく、戦争が終わってから、伯父は本島南部で戦死したと知りました。

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 《米軍の上陸後、與那覇さんは読谷村長浜の自宅の裏にあった壕で、家族全員で生活を続けます》

 戦争が始まると、私の家のすぐ後ろにカンジャーヤーガマ(鍛冶屋洞窟)という大きな壕があったので、家族みんなでそこに移動しました。大きな壕とは言ったものの、当時の自分には大きく見えただけかもしれません。米や豆などの食料を家で調理して、それを壕に持ってきて食べました。空襲警報が出たらすぐに壕に逃げて、身を潜めました。私はとても静かな子だったのですが、壕の中では赤ちゃんや子どもが泣く声が響いていて、その度に大人から静かにするように言われていました。

 壕に隠れていた間にあった空襲で、長浜の部落一帯の家や家畜が焼かれてしまいました。人々は皆壕に逃げたので無事でしたが、家で飼っていた豚や馬などの家畜を全て失ってしまいました。家畜の焼けた臭いは本当に独特で、思いだす度に気持ち悪くなります。つい最近までこの臭いがふいに思いだされるほどでした。

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 《戦争が終わったことは、隠れていた壕にやってきた米兵から知りました。壕の前でアメリカ兵が「カマーン、デテコイ、コロシマセン、デテキナサイ」と呼びかけました。米軍からの仕打ちを恐れて出てこなかった人々は、米軍によって投げ込まれたガス弾によって亡くなってしまいます》

 壕には前の方にある入り口から入っていたのですが、上の方に穴があったようで、ある時、その穴から人の足が見えたんです。隠れていた人々は「日本兵の助けが来た!」と喜んでいたのですが、その足がおりてきた瞬間、迷彩柄の服を着た米兵が現れました。ハワイ2世の米兵だと聞きましたが、標準語で「デテコイ、デテコイ」と言うんです。とても怖かったのですが、大人に従って一緒に外に出ました。壕の奥には部落のお年寄りが何人か隠れていたのですが、その方たちは最後まで出てきませんでした。すると、米軍は壕の中にガス弾を投げ込みました。壕のその後を直接見てはいませんが、亡くなってしまったんだと察しました。

※続きは10月19日付紙面をご覧ください。