沖縄出身の移民たちは差別や偏見にさらされてきた。ボリビアでは、日本人移住地と沖縄出身者の移住地は別々で、日本政府から継続的に支援があった日本人移住地と、米国の沖縄占領政策として実施され、途中で米国の支援が途絶えた沖縄移住地では格差もあった。当時13歳の津嘉山美智子さん(74)=恩納村=が偏見を肌身に感じたのは1961年、ボリビアに向かう船の中だ。「琉球人」。同乗していた本土出身者にそう呼ばれ、見下された。「子どもながらに、けなされていると分かりましたよね」。子どもながらに傷ついた記憶は今も残る。
それでもコロニアオキナワでは、県系人が家族同然に助け合い、過酷な環境を乗り越えてきた。旧羽地村(現名護市)出身。一家7人は第11次移民団として第2コロニアに入った。長女の津嘉山さんは父親と一緒に山に入り、マチェーテ(なた)片手に草を刈り、開墾を手伝った。
20歳で県系人と結婚し、5人の子どもをもうけた。バイクに5人の子どもを乗せ、子育てや農作業に駆け回る日々。「楽な生活はないよね。それでも生活するには向こうは気楽でいい所だった」、そう懐かしむ。
1964年に終わった琉球政府の計画移民。過酷な環境が沖縄に伝わると、年々希望者は減った。日米両政府から十分な支援を受けられず、水害や営農の失敗で多くの人がボリビアを離れた。教育や医療への不安も大きかったとされる。津嘉山さんが第2コロニアを離れたのも、子どもたちの教育を考えてのことだった。
同じ境遇で助け合う環境から一転、沖縄に戻った移民たちは社会の中でもがき苦しんだ。移民先で生まれた2世の子どもたちは“海外育ち”に対する偏見や、日本の教育を受けてこなかった劣等感にもさらされた。
津嘉山さんの一番上の子どもは、日本語の習得状況などにより、三つ学年を落として中学2年になった。多感な時期の子どもたちに苦労をかけたことを今も申し訳なく思う。「大人になってから子どもの時に大変だった、と聞いた。我慢しているところがあったのだと、かわいそうだったなと思う。子どもたちに悪かった」
現在、子どもたちは全員独立し、1人は内地で働き、4人は県内で溶接や介護、自動車修理や保育など、手に職を付けて仕事をしている。移民体験の中で子どもたちのことを語る時、複雑な表情ものぞかせる津嘉山さん。しかし、「『子どもの時ボリビアにいて良かった』と子どもたちは言ってくれるし、もう終わったこと。その後は友達になっているから大丈夫よ」。そう言って笑顔を見せた。 (中村万里子)(本連載の4回目以降は「アジア・海外通信員」欄で随時掲載)