「にぎやかに、楽しく」サイパンの慰霊碑前に響く歌声 家族眠る島 91歳・上運天賢盛さんの思い<思い尽きず・再開、南洋群島慰霊>上の続き


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「サイパンは故郷であり、戦争で亡くなった家族や同級生が眠る場所」と話す上運天賢盛さん=11月25日、那覇市

 1944年6月15日、住民を巻き込んだ日米両軍の戦闘が始まった。サイパン島。軍民が混在する地上戦では、日本兵による住民の壕追い出しや虐殺、斬り込みの強要も起こった。

 島の北端にあるマッピ山に追い詰められた住民の中には、当時12歳の上運天賢盛さん(91)の姿もあった。岩陰に身を隠した上運天さん。岩陰からは、崖から身を投げる人々が見えた。年老いた女性は3人の幼子の首を鎌で掻(か)き切り、最後は自分の首を切って身を投げたという。「驚いて何も言葉が出なかった。今でも夢に見る」。恐ろしくなり、急いで岩場を離れた。

 上運天さんと同い年のいとこも、日本軍の兵長に「夜襲攻撃に参加しろ」と命令され、手榴(しゅりゅう)弾を渡された。出撃準備をしていると、通り掛かった若い将校が止めに入った。「そんな命令は出ていない。戦争は子どもがやるもんじゃない。子どもは国の宝だ。帰れ!」。言い争う兵士らを背に、上運天さんらは山を駆け下りた。

 ある岩場では、日本兵が母親から乳児を取り上げ銃剣で殴り殺す場に出くわした。「直後に砲弾が落ちたからみんな死んでしまったんじゃないか」。行動を共にしていたいとこは米軍の攻撃で右足を失い、出血多量で亡くなった。悲惨な出来事の数々が心をむしばみ、死体を見ても「いずれ自分もそうなる」としか思わなかった。

 一人ぼっちになり、避難民を追って何日も海岸をさまよったが、米軍に保護され、収容所で母らと再会した。父と兄、姉は戦死。いとこ家族も全滅していた。

 地上戦から24年後の1968年。上運天さんは、南洋群島から沖縄に引き揚げた人でつくる南洋群島帰還者会の一員として、サイパン島を再訪した。人々が身を投げた崖下に建つおきなわの塔で、戦死した肉親らの冥福を祈った。以来、2019年まで50回にわたり現地慰霊を続けた。

 今年3年ぶりに現地慰霊の旅が再開した。参加者22人中、半数が90~80代。帰還者会の高齢化が進み、今年から個人参加となった。サイパンへの渡航は体力もお金もかかるが、故郷でもあり、肉親の骨が眠るサイパン島への思いが尽きることはない。

 久しぶりに訪れたおきなわの塔の前で、幼い頃に親や先生に教えてもらった「ふるさと」や「てぃんさぐぬ花」を参加者全員で歌った。「生きている私たちが喜ばないと、み霊もうれしくないでしょう。にぎやかに、楽しく。いつまでも平和であるように」。願いを込めた歌声が、かつての激戦地に響いた。
 (赤嶺玲子)


 

汚水でのどの渇きを紛らし、崖から身投げる人も…12歳の少年がサイパンで見た景色<思い尽きず・再開、南洋群島慰霊>上