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民主主義崩壊の危機 「紙」の新聞は社会への窓 メディアの未来<山田健太のメディア時評>


この記事を書いた人 アバター画像 琉球新報社
記者の質問に答える岸田首相=8月、首相官邸

 今秋以降、「××新聞いよいよ○台割り込む」といったニュースが続いた。新聞発行部数は1995年ころがピークで、日本全体で7000万部を超えていたのが、いまや3000万部余と半分以下にまで落ち込んでいる。この間、ほぼ一貫して右肩下がりではあったものの、近年の下がり幅は特に大きい。そうしたなか、ニュースになるだけまだ存在感があるともいえるが、いま一度この社会で紙の新聞が発行されている意味を考えてみたい。
 

同じ情報を入手

 日本のメディアの特徴として(1)マス(2)三層(3)公共―をあげることができる。世界で唯一、基幹メディアのマス性が担保されているのが日本で、大部数高普及の新聞、民放・NHKの二元体制のもとでの全国遍(あまね)く放送、街の書店における硬軟取り混ぜた多様な棚揃えの雑誌・書籍販売によって、社会に実質的なマスメディアが存在し続けているわけだ。私たちが享受してきた、どこでも良質で同じ情報を入手できる環境は、ほかの国では当たり前ではない。

 新聞販売店や書店の数も少し前までは全国に2万店あった。この2万という数字は興味深く、全国をくまなくカバーできる基礎数とされており、特定郵便局や小学校などがあてはまる。こうしたマスの存在を前提として、さまざまな社会制度が構築されてきた。選挙期間中の、公費で賄う政見放送や選挙広告の制度もその1つだ。候補者の主張を有権者に伝える媒体として、誰もが触れている新聞や放送が最適であったからである。

 また、世界でもまれなメディアの三層構造を維持していることも見過ごされがちだが、世界の常識では決してない。全国(ナショナル)、地方(ローカル)、地域(コミュニティ)をさすが、新聞であれば全国紙・地方紙・地域紙、放送であればNHK・民放・FMコミュニティ放送にわけられる。取材エリアも、想定される受け手も異なるメディアの存在によって、ジャーナリズムの空白地帯を作らず行政監視の実践がなされたり、相互のメディア間にも緊張関係が保たれ、報道の質が保たれ倫理の向上にも寄与している。

 そして三つめに、メディアの公共性について社会的合意が存在してきたことがある。NHK受信料はボランタリーな私人間契約にもかかわらず8割の世帯が支払っているし、新聞も月極め定期購読というかたちで、これまではほぼ全世帯が宅配で新聞を毎朝読む日常を維持してきた。あえていえば、見ても見なくても、読んでも読まなくても、新聞やテレビを身近におくといった、いわば「お布施」のような存在のジャーナリズムがある生活を、私たちは選択をしてきたわけだ。
 

制度的に保障

 こうしたお茶の間の日常にマスメディアがある風景は同時に、政治家から庶民までが同じニュースをもとに社会的関心を有し、社会的・政治的意思決定をしていることをも意味する。これが分厚い中間層を形成してきたともいえるし、「戦争は二度と嫌」といった緩やかな社会的合意の形成にも役立っていたのではないか。

 こうした日本型メディア環境を前提として、あるいはこれらを下支える形でさまざまな法社会制度が存在している。新聞ジャーナリズムあるいはメディア企業としての新聞業を制度的に保障しているということで、世界のなかでも手厚い特恵的待遇を受けている国の一つが日本の新聞界でもある。経営・財務上では、消費税軽減税率はじめ法人税の経費算入等で特別扱いがある。第3種郵便や法定公告のほか、先述の選挙広告もここに位置づけることができよう。

 これらは、新聞業の経営上の安定をサポートするもので、間接的に知る権利の代行者としての報道機関を支えるものである。また、定価販売を定める再販制度は、地方を含めた知識や情報へのアクセス平等性を担保するためのものであるし、日刊紙法によって株式保有譲渡を制限できるのは、言論の独立性を保つための社会的工夫である。

 そして何より編集上の特恵的待遇も、報道活動に大きく寄与している。個人情報保護法や探偵業法上の適用除外は、取材の自由を直接担保するものであるし、国会記者証の交付や記者クラブをベースとした国会・法廷等の取材の便宜供与は、広くそして迅速に情報を伝達するための仕組みとして、社会的に認められてきたものだ。

 さらに特定秘密保護法など表現規制色が強い法律が、2000年以降で数多く制定されてきてはいるものの、そうした法律には留保条項が付き、取材や報道の自由に一定の配慮を示してはいる。刑法の名誉毀損(きそん)罪における免責要件と呼ばれる、公共性・公益性によって批判の自由を保障する仕組みも、近代民主主義社会の大きな獲得物である。
 

難しい舵とり

 新聞は時代遅れの産物、いまだにこんな特恵的待遇を与える必要はない―という声がすぐにでもあがりそうだ。しかし世の中に報道機関があるからこそ、市民に必要な情報や知識が広くいきわたり、また意思形成がなされている事実は否定し得まい。日本はいま、世界で急速に広がっている社会の分断やポピュリズムが、一定程度抑えられているとされている。その要因の一つには、かろうじてマスメディアとしての存在を維持している新聞の報道活動を無視できまい。しかも、ここでいう新聞の中でも、古典的な「紙」の新聞が果たしている役割は大きいだろう。フィルターバブルに陥ることなく、さまざまな情報に接する社会への窓の役割を担っているからだ。

 しかしこの現状が今すぐにでも壊れる可能性が迫っている。それが冒頭の紙の新聞の急激な部数減である。もし世帯の半分以上が新聞を読まなくなれば、そうしたメディアはマスとは呼ばないだろうし、社会の中での特別扱いが必要かどうかは当然に疑問の声が出てくるだろう。それは、新聞業総体の経営を一気に厳しくするだけでなく、通常の取材・報道活動が行えなくなる可能性がある。まさに、デジタルに移行すれば新聞は生き残れるのではなく、紙の部数が一定の限界を超えると、新聞社=新聞ジャーナリズムそのものがなくなるということを意味している。

 こうした事態が日本の民主主義を一気に崩壊させることにつながりかねないだけに、新聞の発行部数の減少は私たちの社会の未来を占う大きな数字である。では、どのようにして紙を守るのか、あるいは守る必要があるのか。その前提として日本型メディア環境を維持していくべきなのか。逆に、現在の特恵的待遇をデジタルメディアにどう拡張していけるのか。新聞各社は難しく厳しい舵(かじ)とりを迫られる段階にきていることは間違いない。しかしそれはメディア企業としての新聞の問題ではなく、私たちの社会全体の将来に向けての課題でもある。
 

(専修大学教授・言論法)


 本連載の過去記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。