サンゴ拾い、兄の遺骨代わりに 母の思い継ぎ辺野古に抗議も 當銘加代子さん 36年ぶりのサイパン<思い尽きず・再開、南洋群島慰霊>中


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サイパンで拾ってきた貝殻などを手に母親と兄について語る當銘加代子さん=8日、名護市

 南洋群島慰霊と交流の旅で當銘加代子さん(78)=沖縄県名護市=は36年ぶりにサイパンを訪れた。2歳半で亡くなった兄の義博(よしひろ)ちゃんの遺骨の代わりに、海岸で貝殻やサンゴを拾った。戦後も息子を思い続け、8年前に96歳で亡くなった母親の知念アイ子さんの骨つぼに一緒に納めるといい、「母親も安らかに眠れると思う」とほっとした表情を浮かべる。

 1944年7月、激しい空爆が続き、米軍が迫る中、母・アイ子さんは義博ちゃんと生後6カ月の加代子さんを連れ、逃げ惑った。加代子さんが泣くため、壕に入れてもらえず、近所の男性が義博ちゃんをおぶって逃げる途中、機銃掃射を受けた。義博ちゃんは「ポンポンが痛い」と泣きながら息を引き取った。アイ子さんは米軍の収容所に入れられる時も、空き箱に入れた義博ちゃんの遺体を離さなかった。しかし、米兵が「死亡診断書を書くから」と連れて行き、戻って来なかった。

 46年に沖縄に引き揚げた後も、アイ子さんは毎日のように戦争のことを語り続けた。その中でも「一生の後悔」としていたのが義博ちゃんが亡くなる間際の出来事だ。
 アイ子さんは「もう死んでもいい」とあおむけになり、片方に被弾した義博ちゃん、もう片方に加代子さんを抱いて道路に寝転んだ。泣く加代子さんにおっぱいをあげようと、義博ちゃんの反対側に向いている間に亡くなった。「『お母さん、こっちを向いて』と言っていたのに、どうして息子に顔を向けてしっかりと抱きしめてあげられなかったのか」

  晩年、アイ子さんは認知症を患い、たびたび警察に「男の子がいなくなった」と駆け込んだ。「義博ちゃんはどこに行ったの。おっぱいが張って早く飲まさないと大変」と胸をさすり、気にかけ続けたという。

 加代子さんには忘れられないことがある。高校生のころ、アイ子さんとけんかして「にぃにぃが生きて、私が死ねば良かった」と口答えすると平手でほおをたたかれた。「この子は、どんな思いで引き揚げ船に乗ったのかも分からないで」。収容所では栄養不良で大勢の子どもたちが亡くなっていった。加代子さんも「引き揚げ船に乗るまで持つかねぇ」と周りに言われていたと聞いた。

 93年にまとめたアイ子さんの手記には、戦争の悲惨さを語り継ぎ、世界の平和を願う切実な思いがつづられている。母親の思いを継ぎ、加代子さんは今、辺野古新基地建設反対の抗議行動に通う。「戦争につながるから、どうしても新しい基地を造らせたくない。平和であってほしい」。加代子さんは今後、弟たちと母の思い出を共有し、慰霊の旅を続けるつもりだ。

(中村万里子)

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