ビーチで、空港で、こみ上げる涙 両親失い逃げ惑った戦地 兼城賢愛さん・祖堅秀子さん<思い尽きず・再開、南洋群島慰霊>下


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過酷な戦争を体験したが、「今は子や孫に囲まれて幸せだ」と話す兼城賢愛さん=9日、うるま市

 太平洋戦争でのサイパンの戦いは、残留邦人2万人余のうち約8千~1万人が犠牲になり、沖縄県出身の犠牲者は約6千人に上る。戦闘に巻き込まれ、両親を失った子どもは数知れない。

 当時10歳の兼城賢愛さん(89)=うるま市=は両親と姉、妹を亡くした。40代後半から現地の慰霊の旅に参加している。必ず足を運ぶのはサイパン島西部にあるガラパンの浜。両親とはぐれ、一人たどり着いた場所だ。

 米軍がサイパン島に上陸すると、兼城さん一家は中央部のタッポーチョ山から北へ北へと逃げた。父は5歳の弟を背負い、母は2歳の妹を背負っていた。暗い夜道で人波にのまれ、いつの間にか両親とはぐれた。

 一人で行き先も分からぬまま逃げ続けた。たどり着いたのはガラパンの浜。「夜が明けると周囲は死体の山。足の踏み場もなかった」。その後、日本兵や避難民を追って山へ。戦闘終結を知らず、約半年間も山に隠れ続けた。弟とは収容所で再会できたが、両親と姉妹の行方は分からず、遺骨も見つからなかった。

 今回3年ぶりにガラパンの浜を訪ねた。「寂しい、やるせない」。つらい気持ちがこみ上げた。浜に来ると遺骨代わりに小石を拾い持ち帰るという。「もしかしたら浜に両親も来たんじゃないかと、さまざまな思いが駆け巡るわけです」

 同行した娘の新田友子さん(64)は父と海を見詰めた。「10歳の子が一人で戦場を逃げ回ったと思うと心が痛い。両親を失い寂しかったと思う。戦後は家族を支えて強く生きた。現地で父の体験を知ることができて本当によかった」と涙をにじませた。

両親やきょうだいを失ったサイパン戦について語る祖堅秀子さん=9日、うるま市

 慰霊の旅に参加した祖堅秀子さん(84)=うるま市=もサイパンで親ときょうだい4人を失った。島には何度も訪れているが、空港に着くと必ず涙がこみ上げる。「親やきょうだいが生きていれば…」。戦後に味わった寂しさがよみがえるからだ。

 当時5歳。母は機銃掃射を受けて死に、はぐれた父ときょうだいは行方が分からない。姉と2人で米軍に収容された。1946年に兄夫婦と沖縄に引き揚げた。到着した中城村の久場崎港は経験したことのない寒さだったが「抱きつく親がいなかった」。戦後は姉夫婦と暮らし、めいをおぶって通学した。

 両親がいない暮らしを恨んだこともあったが、いつしか「生かされて幸せ」と思えるようになったという。戦争を超える苦しみや悲しみはないと分かったからだ。「生きていれば何だってできる」と信じている。

 3年ぶりに訪れたサイパン島で両親ときょうだいに祈った。「私は一生懸命頑張って生きています。天から見ていてくださいね。来年もきっと来ますから」

(赤嶺玲子)