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「ここでダメだったら…」人生を懸けた挑戦、ブランド名に込めたアイデンティティー 比嘉一成さん(デザイナー・ディレクター)<夢かなう>


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自身が手掛けるブランド「HIGA」の展望を膨らませる比嘉一成さん=2022年12月17日、那覇市前島のホテルアンテルーム那覇

 沖縄らしさを間接的に取り入れたスタイリッシュなデザインで人気を博す沖縄発のアパレルブランド「HIGA」。国内外のセレクトショップから引き合いがあるなど世界からも注目されている。輝かしい活躍を見せるデザイナー・ディレクターの比嘉一成さん(42)だが、テレビ工場でのアルバイト、営業マンとして働くなど、道のりは容易ではなかった。それでもデザイナーとしての夢をかなえるため信念を貫き続けた。

 学生時代は修学旅行で観光よりも古着屋巡りをするほど服好きだった。埼玉の英語学科がある大学に進学するも「飽きない仕事がしたい」と洋服への思いを強め大学を中退。両親は大反対だったが決断を尊重してくれた。「誠意を見せろ」との父の言葉に、中退後は兵庫のテレビ工場で半年間住み込みのバイトをした。「戻りたくない」と振り返るほど仕事はきつかった。

 その後、東京の服飾専門学校に進学する。デザイナーとしてはゼロからのスタートだった。3日間徹夜したこともあるほど課題に追われる日々を過ごした。2年目からはコンテストで存在感を発揮する。一次選考はデザイン画。通常は10~15枚ほど提出するが、比嘉さんは段ボール1箱、約500枚を提出していた。審査員が何を考えて何を欲しているか、傾向と対策をコツコツと蓄積し、努力を重ねた。

 卒業時は就職氷河期。デザイナーとしての就職はかなわず東京のアパレルメーカーで営業職に就いた。思い描く道ではなかったがかけがえのない経験だった。「やっていなかったら今の自分はない」と言う。デザイナーと工場の間で、交渉を重ねた。新潟にある現場での勤務経験もあり、糸が洋服になる過程を見た。「物作りのノウハウを獲得した」と振り返る。

 勤めている間も自分のブランド立ち上げのため構想を練り続けていた。「スタートする時は沖縄で」と2009年に帰沖。立ち上げ後もなかなか芽が出ず、センター試験の採点のアルバイトをしたこともある。それでも自分のデザインを洗練させ、国内外で展開するセレクトショップからも声がかかるようになった。

 日本の最新ファッションを国内外に発信する15年の「メルセデス・ベンツファッション・ウィーク東京」に挑戦。「ここでダメだったら足を洗ってもいい」とデザイナー人生をかけた。自分のアイデンティティーである「沖縄」で違いを出そうとブランド名を自身の名字「HIGA」に変更。見事出展を決め夢見た舞台に名を連ねた。「有名なブランドの中に入っている」と「HIGA」の名前をかみしめた。

 現在は那覇市松尾に店舗を構え、オンライン販売も展開している。ユニホームなどの商業デザインも手掛ける。これからも「沖縄を意識し続け、品格を持ってやっていく」と歩みは止まらない。

(金盛文香)