浜辺に10万個の地雷、除去完了は昨年…「戦時」残る島、砲弾から包丁を作る職人の思い<金門島~中台のはざまで>上続き


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中国まで2キロの台湾「金門島」のいま 中国人客を待つ免税店、軍事最前線で進む経済交流<金門島~中台のはざまで>上から続く


 

かつて中国から撃ち込まれた砲弾を材料に包丁を製造する呉増棟さん=2022年12月30日、台湾・金門島

 台北市から200キロ以上も西にある金門島は中国大陸に抱かれるように位置するが、中国との激戦を経て、台湾が実効支配してきた。

 国共内戦下の1949年、中国人民解放軍が金門島の奪取をもくろみ島に上陸するも、蒋介石総統率いる中華民国軍の反撃に遭い失敗。58年8月には中国側が金門島に44日間にわたる大規模な砲撃を仕掛け、約47万発を撃ち込んだ。宣伝ビラを込めた砲弾も撃ち込まれた。砲撃は後に形式的なものになりながら、79年まで断続的に続いた。

 金門の戒厳令が解かれて30年。軍事要塞(ようさい)化された「戦時」の面影は今も、島のあちらこちらで目にすることができる。浜辺では中国軍の上陸を防ぐため突き立てられた鉄くいがさびた状態で残る。約10万個が設置されたという地雷の除去作業が完了したのは、2022年のことだ。

 大陸から撃ち込まれた砲弾は包丁の材料になり、金門の代表的な特産品として店頭に並ぶ。

 「世界が平和であるようにとの思いで包丁を作っている」。鍛冶職人として半世紀近く、砲弾から何十万本もの包丁を製造してきた呉増棟さん(65)はそう話す。

 経営する「金合利鋼刀」の3代目。1937年に創業した祖父はもともと厦門(アモイ)で農具や漁具を販売し、父の代に金門に移住した。57年生まれの呉さんも、砲弾の雨が降り注ぐ時代に育った。

 国際社会で中国が台頭し、「台湾有事」の可能性が強調されるようになったが、そのはざまでかつて激戦地となった金門島では、むしろ交流が活発化して依存関係を強めている。

 2018年には、パイプラインを通じ中国側から金門島への飲料用水の供給も始まっている。今年の春節(旧正月)の時期には、期間限定だがコロナ禍で止まっていた厦門との往来も再開される見込みだ。

 呉さんは「中国も台湾も金門も、同じ中華民族の子孫。両岸が平和を維持して発展し、友好関係を築くことが台湾にとってベストだ」と願う。

(當山幸都)