<未来に伝える沖縄戦>通信隊、砲撃受け足に重傷 南部へ、捕虜になり処刑覚悟 諸見里安弘さん


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 具志川村(現在のうるま市)平良川で生まれ育った諸見里安弘さん(93)=沖縄市=は県立第二中学校(現那覇高校)3年の秋に通信隊の入隊試験を受けました。沖縄戦では同隊員として日本軍の後方支援に当たりますが、4月に米軍の砲爆撃で重傷を負います。その後6月下旬に米軍の捕虜となり、最終的にハワイの捕虜収容所で1年5カ月を過ごしました。諸見里さんの話を那覇高校2年の池原光翼さん(17)と外間結衣さん(17)、1年の新城瑞稀さん(16)が聞きました。

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体験を語る諸見里安弘さん=12月23日、沖縄市美里(小川昌宏撮影)

 《諸見里さんは1942年に具志川国民学校を卒業し、県立第二中学校に入学します》

 入学してしばらくは授業がありましたが、2年生からは3分の1が授業で、残りは日本軍の陣地構築となりました。

 44年10月、2年と3年の生徒に対する通信隊への強制的な入隊試験がありました。しかし当時は日本のために自分の身をささげることが至上の目的で、私も軍人に憧れていたので、手を挙げて参加しました。通信隊には200人ほどが採用され、無線、有線、暗号の3組に分けられました。私は無線組に入り、二等兵として現在の那覇市首里赤田町で訓練を受けました。

 《45年3月下旬になると、米軍は沖縄本島への空襲や艦砲射撃を始めます。これを受けて、諸見里さんは首里赤田町から首里崎山町に造られた壕へ移動します》

 首里崎山町の壕では回転発電機の発電係や炊事当番の任務が与えられました。米軍の砲弾は首里にも届き、まさに「鉄の暴風」と言われるほど激しい攻撃を受けました。

 誕生日翌日の4月26日、夕方の炊事当番は一つ上の高良さんと私の2人でした。2人で飯ごうを洗って壕に入ろうとした瞬間、壕の入り口に砲弾が直撃して土ぼこりが舞い、高良さんは「うーん」とうなり声を上げて倒れました。私は足から出血していることに気づいて気絶し、気がつけば壕のベッドの上で、止血のために足がつり上がっていました。傷の手当てと言ってもヨードチンキで傷を拭うだけでしたが、意識が回復したことで出血は止まりました。しかし、高良さんと周辺で砲撃を受けた2人の兵士の計3人は翌日までに日本軍の病院に運ばれた後、亡くなったと聞きました。

※続きは1月12日付紙面をご覧ください。