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見過ごせぬ自由の縮減 なし崩し「閣議決定」常態化 コロナ禍の言論状況<山田健太のメディア時評>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
列を組み与那国町の公道を走行する戦闘車(奥)。見つめる住民の姿も=2022年11月17日、与那国町与那国(小川昌宏撮影)

 昨年のサッカー・ワールドカップではコロナ感染症を全く感じさせない「普段通り」の応援風景が繰り広げられていたし、年末年始の国内でも人出がコロナ前に戻ったと報じられている。沖縄県内では、抗体保有者(抗体陽性率)が統計上でも5割に迫り、事実上の集団免疫ができたとの指摘もある。いわばパンデミック状況から抜け出しつつある今の段階で、改めてこの3年間の言論状況を振り返っておく必要があろう。それは、非常事態を隠れ蓑(みの)に自由の制約状況が加速度的に進んでいるからである。

公正さと透明さ
 

 政治の世界で公正性と透明性が失われて久しいが、その傾向が一段と加速した。顕著になった端緒は、モリ・カケ・サクラと称された首相の不正・不誠実な政策決定以降であるが、現政権になってからも、国葬そして原発政策や防衛方針の転換と、その結論への強い疑問とともに、審議過程が闇の中であり、公正な議論が行われたことが適切な開示によって担保されないという共通の問題を孕(はら)む。

 2015年ころにギアチェンジし20年代に入り一気に加速化しているデジタル政策についても、その推進役を担っているマイナカードの位置付けは議論なき後付けでますます茫漠(ぼうばく)としてきた。一方で、マイナンバー制度の肝であったマイナポータルは忘れ去られ、もともと自己情報コントロール権の実効的手段として記録開示システムであったはずが、今は所轄の総務省も行政手続きオンライン窓口と看板さえ書き換えてしまっている。

 こうした状況の主犯格が首相であることは言うまでもないが、安倍時代のご飯論法と称される饒舌(じょうぜつ)な自己主張にしろ、菅時代の強面(こわもて)のぶっきらぼう答弁も、自身の不公正・不透明を意識し、それを隠すためだったともいえる。しかし現政権においては、問題を自覚していないのではとの懸念を覚える。その結果、本人曰(いわ)く「丁寧な説明」を繰り返しても、一向に議論の中身は開示されないままの状態が続いている。さらに、「専守」防衛や財政「健全」化について根本的な議論がないまま、閣議決定というブラックボックスの中で物事が決まる傾向も定着してしまった。

 そうしたなか、沖縄では公道で軍事車両を走らせたり、ブルーインパルス飛行名目で民間空港での自衛隊機利用を認める一方、南西諸島では自衛隊員家族を安全な場所に「移住」させる動きも伝えられており、住民不在の議論なき既成事実化が続く。まさに、辺野古新基地建設と同じ構造である。

脆弱な監視機能
 

 こうした政府を監視する役割は、いうまでもなくジャーナリズムにある。しかしこの間、敵基地攻撃能力等の戦時体制転換のお墨付きを与えた有識者会議は、政治と報道の距離の近さを改めて示すものであった。首相が設置した「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」の構成員10人の中に、朝日・読売・日経の関係者が含まれていたからだ。しかも、議事録として公表されているのは議事要旨にすぎず、記録の非公開を了としているのが構成員であるところのメディア関係者であることに深い闇がある。

 国葬に関する有識者ヒアリングと論点整理(故安倍晋三国葬儀事務局)も、検証には程遠いものだし、その前日に、衆議院議員運営委員会の下に設置された各派協議会でまとめられた報告書も、わずか3ページ全文で2000字弱だ。その絶対的分量の貧弱さ以上に看過できないのが、その記録の仕方だ。会議の議事録は「誰の発言か」がわかることが重要であるが、「国葬が批判の対象だから」という理由で、発言者名はすべて伏せたままだからだ。

 本来、公文書の議事録は発言者と発言内容が1対1で対になっていることが必要条件であったはずが、この3年間に成し崩しで、発言者を伏せた「議事録もどき」の議事概要が、正式な記録として認められるようになってきている。この状況については、すでに訴訟も起こされているが(たとえば、情報公開クリアリングハウスのコロナ専門家会議議事録訴訟)、司法判断で歯止めをかけることができるかどうか、微妙な状況だけに、よりいっそうジャーナリズムの監視力が求められる。

元に戻す難しさ
 

 コロナ禍を理由とした官邸記者会見(首相・官房長官)の特例が固定化し、会見場の出席人数の大幅削減も、1社1回1問の質問制限も続いたままだ。しかもそうした明白な行政による取材妨害を、本来は会見の主催権があるはずの記者クラブ側が、容認し続けている。20年4月に突然始まった移動の自由をはじめとする私権制限を、社会全体が積極的に容認した結果、いまなお「元に戻す」ことができないでいるわかりやすい事例の一つだ。そのうち特例が原則になり、例外であるはずの制約を不思議に思う人がいなくなることが一番恐ろしい状況だ。

 同じことは先述の原発政策における大きな政策変更にも当てはまる。有識者による「GX実行会議」がその担い手であるが、ここでも「会議終了後の記者ブリーフにおいて発言者の氏名は伏す」ことが、運営要領でわざわざ明文化されている。3・11で問われた政官財報学の一体化からの脱却の機会を、またもや失いかねないといえよう。

 政府に押し切られそうな日本学術会議への政治介入も、実は同じことが報道界ではすでに起きていたにもかかわらず、それを受け入れてきたことに遠因がありはしないか。NHKの経営委員会メンバーや、同組織を通じての会長人選など、官邸が「思うがまま」の人事を進めてきたことと通底するからである。

 11日に東京都内で開催された沖縄県主催行事に登壇した演出家・宮本亜門は、昨年末のテレビ番組でのタモリの発言を引いて、今年を「新しい戦前」にしないため、戦争が人災であるからには人の手で起こさないようにすることができるはず、と日本の軍備増強に強い懸念を示した。玉城デニー知事は、米軍基地の沖縄集中や南西諸島での自衛隊ミサイル配備について、本土の認識とのギャップがあり、これをなくすためにも沖縄から積極的に情報発信し、一緒に未来を考えていく必要があると強調した。

 説明なき再軍備政策に対し、行政主体である沖縄県が声を上げざるを得ない事態は、翻っていえば本来その役割を担うべき本土ジャーナリズムの深刻度が推し量られる。この3年間、とりわけコロナ対策において科学的エビテンスが欠如するなし崩しの政策決定や行政運用になれてしまい、報道によるチェックも十分に機能してこなかったのではないか。「特別」な期間はいますぐ終わりにして、当たり前のことを当たり前に実行する毎日に戻す必要がある。

(専修大学教授・言論法)