沖縄県宮古島市の下地島空港は1972年、国内唯一のジェット機のパイロット訓練飛行場として建設が始まった。一方、米施政権下の沖縄では建設前から米軍や自衛隊による「軍事利用」が懸念された。このため琉球政府の屋良朝苗主席(当時)は71年に国と「屋良覚書」を交わし、民間機以外は同空港を使用しないことを確認した。
屋良覚書では下地島空港について、管理する琉球政府(復帰後は県)が使用方法を決定するとした。さらに当時の運輸省が同空港を民間機の訓練以外に使用する意思がないこと、国が民間機以外の使用について琉球政府に命令しないことも確認した。このほか本土復帰後の79年には当時の西銘順治知事も国と「西銘確認書」を交わし、人命救助などのやむを得ない事情を除き民間機の使用に限定することで合意した。
今回の申請について、ある県関係者は「屋良覚書は法的な位置づけが難しい」と語り、民間利用や空港施設への影響が生じない限り、県が使用を「拒否」することは難しいとの認識を示した。一方、県はこれまで国と屋良覚書や西銘確認書に基づいた運用を続けてきた。このため米軍に対しても、覚書が存在する下地島空港は使用を「自粛」するようこれまでも求めてきた。県は今回の申請についても国との覚書で確認された運用方針を米軍側に伝え、「自粛」を求めるとしている。
(武井悠)