県民以上に沖縄を愛した人 石田穣一さんを悼む 大城光代・第11代那覇地方裁判所長


社会
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長崎の原爆について語る石田穣一さん=2010年8月、那覇市の琉球新報社

 琉球王朝由来の方式によるトーカチ祝いをされたと聞いた時、カジマヤーも…と思ったし、ご本人もそのつもりでおられたに違いない。突然の訃報だった。

 日本復帰が決まった時、石田穣一さんは最高裁判所経理局主計課長として来沖、裁判事務のスムーズな移行への準備がスタートした。かつてお父上寿さんは、長崎地方裁判所長として原爆の被害を経験された。当時お父上が撮影された原爆投下直後の写真は長崎の原爆資料館に寄贈されている。だから、地上戦を経た沖縄への出張にはひとしおの感慨があったのではないだろうか。当時、那覇地裁判事だった私は、歓迎懇親会で初めてお目にかかった。

 再会は1980年6月。4月に東京地裁判事になっていた私が法廷を終えて戻ったら、石田さんが裁判官室で待っておられ「那覇地裁所長への内示があった。沖縄からこちらに来ている裁判官にあいさつせずに行くわけにはいかないから」とのこと。大先輩からそのようなあいさつを受けるなど初めてのことで、なんとお答えしたか覚えていない。

 石田さんは、那覇地裁所長時代に沖縄を知るため一日歩いてバスで戻り、次にそこまでバスで行ってその先を歩くという方法で本島を一周し、船をチャーターしてまで全離島巡りをするなど、地元の者にもできないことをされたという。

 1年10カ月ほどで東京高裁に戻られてから、復帰後ずっと東京暮らしだった真栄田哲さん(第十代那覇地裁所長)と2人、何度か小石川のご自宅に招かれておいしい奥さまの手料理をいただきながら、博学多才・多芸多趣味の大先輩から裁判を離れたさまざまな経験談を伺った。福岡高裁那覇支部長への内示を受け、刑事裁判の経験不足から法廷傍聴をお願いした際も、急なことであったにもかかわらず、一日の法廷に異なるケースをそろえて傍聴させてくださり、大変参考になり、自信を持って刑事裁判長として法廷に臨むことができた。

 私が那覇地裁所長の頃、石田さんは福岡高裁長官で、従来、管内の地家裁所長会同は福岡で開催されていたのを改め、熊本で開催されたという得難い経験もした。

 92年6月、恒例の全国長官所長会同のため上京、東京高裁長官になっておられた石田さんから「相談がある」と言われて赤坂のそば屋でお目にかかったら、「定年後は法律の世界との関係を断ち沖縄で暮らしたい」とのこと。直ちに賛成したことは言うまでもない。

 そして翌年4月、石田さんは那覇市民になられた。裁判所外の仲間の歓迎会で、某大企業の社長が顧問弁護士にと思ったのかしつこく弁護士登録を勧めておられたが、石田さんの意思は固かった。

 その後の石田さんの活動は19日付に掲載された記事と高良倉吉さんの談話の通りで周知の事実、路面電車が実現していないのが唯一心残りだったのでは…と思う。

 キリ短で若い女性ファン、桜坂大学で中高年女性ファンがたくさんできたと喜んでおられた石田さん。県人以上に沖縄を愛した石田さん。みんないずれはそちらに行きます。得難い人生の先達でした。心からご冥福をお祈りいたします。
 (第十一代那覇地方裁判所長)