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「やっけーしーじゃ」と中学校則からの抑圧 輝ける場所求め「北中城のりゅうちゃん」に ryuchellさん・北中城高校4<セピア色の春>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
「自分の心が温かくなる道を歩みたい」と語るryuchellさん=1月14日、那覇市の琉球新報ホール(喜瀨守昭撮影)

 ryuchell(27=りゅうちぇる)は1995年、宜野湾市で生まれた。近所の小学校に通い、沖縄市や宜野湾市の中学校で学んだ。

 小学生の頃は、親しい同級生の輪の中で自分の個性を伸び伸び発揮することができた。ところが、中学校生活には苦痛を感じた。「同じ制服と厳しい校則。先輩後輩の上下関係」に押しつぶされそうになった。

 「自分の個性に自信がなくなった。『やっけーしーじゃ』(厄介な先輩)に目を付けられると、言うことを聞かなければならない。目立たないよう自分の個性を隠した」

 心のつながりを持つ友はなく、いつしか笑顔を失っていった。

 2011年、北中城高校に入学した。「環境を変えたい」という思いからだった。母と相談し、北中城村内に転居した。自由な北中城高の雰囲気は内向きになっていた心に温かな風を送ってくれた。

 何よりも制服がお気に入りだった。「ブレザーとチェック柄のスカートがかわいかった。ドラマに出てくるような、おしゃれなセンスがあった」

 北中城高校には個性的な生徒が集まった。「自分の世界を持っている子が多く、刺激的だった。一生付き合える友だちとも出会えた」と振り返る。笑顔もよみがえった。小中時代を知る同級生は「高校生になって、明るいイメージが戻ったね」と話してくれた。

 教師も優しく接してくれた。「先生にも仲良くしてもらった。僕があまりに個性的すぎて、どう扱えばよいのか分からなかったのかも」と笑う。

 学校という居場所を見つけ、明るさを取り戻した。これからは自分の個性を発揮したい。その願いをかなえる手段を手にしていた。SNSである。「中学の頃は個性を隠していたけれど、SNSならば自分を発信できた。皆とつながって仲良くなれた」

 ツイッターで自慢のファッションやメークの様子を投稿すると、フォロワーは2万、3万にまで伸び、「北中城のりゅうちゃん」の名は瞬く間に広まった。ブログも評判を呼んだ。「ネットでうわさになっていた。中部の人はみんな僕のことを知っていたと思う。自信につながった」と語る。海外ドラマの登場人物名をヒントに「りゅうちぇる」と名乗るようになったのは、その頃だ。

 部活動はせず、アルバイトに励んだ。東京に行くという夢を抱き、沖縄市泡瀬の飲食店で3年間働いた。「中部の大人たちと出会い、沖縄の現実、ディープなところを見てきた。勉強になった」と振り返る。

 高校生活を通じて「僕は中部の出身だ」と強く自覚するようにもなった。

 「国際結婚が多く、ハーフやクオーターの子がいっぱいいて、それぞれがいろんな背景を持っていた。ちゃんぷるー文化だ。その中で僕は人を見た目だけで判断せず、『どういう背景があり、どのような環境で育ち、何と闘っているのか』を考える癖が付いた。人の痛みが分かるようにもなった」

 そう話すryuchellも祖父は米国人。さまざまな背景を持ち、多様性を生きる中部の高校生の1人だった。

 2014年、北中城高校を卒業し、所持金6万円を手に上京。原宿のアパレル店で働いているうちにスカウトされ芸能界へ進んだ。平坦(へいたん)ではなかった芸能活動の中で「諦める、割り切る、逃げる、戦わない。そして、期待しない」という生き方を身に付けた。

 北中城高校を卒業して、今年で9年になる。「高校で自信と行動力を身に付けた。恋愛もした。友だちとの絆を確認できた。いろんな思い出がある。心が満たされた高校時代を送ることができた」

 ryuchellにとってかけがえのない居場所となった北中城高校。隠していた個性を解き放ち、自分らしさを生きる原点が記されている。

(敬称略)

(小那覇安剛)


ryuchellさん「高校は自分の居場所だった」 SNS駆使し校外からも注目の生徒に 北中城高校4<セピア色の春>

 


 

【沿革】

1983年4月8日  開校
 86年3月1日  第1回卒業式
 94年8月6日  全国高校総体で男子バスケットボール部準優勝
 97年6月15日  全九州高校体育大会で男女バスケットボール部が県勢初のアベック優勝
2001年8月7日  全国高校総体の自転車競技1キロタイムトライアルで屋良朝春選手が優勝
 06年8月6日  全国高校総体の自転車競技ロードレースで内間康平選手が優勝