<未来に伝える沖縄戦>マラリアにかかり母を亡くす 「命どぅ宝」思いを鎮魂歌に 山根安行さん


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戦争体験を話す山根安行さん=1月30日、豊見城市の伊良波中学校(喜瀬守昭撮影)

 大浜村宮良(現在の石垣市宮良)で生まれ育った山根安行さん(92)=那覇市=は、15歳の頃に沖縄戦を体験しました。飛行場のある石垣島は米軍による空襲を受けました。日本軍の命令で山間地に避難するも、食糧不足による飢えやマラリアに苦しみました。戦後、避難先から宮良の自宅に戻りましたが、母親はマラリアで亡くなりました。当時15歳だった山根さんの戦争体験を伊良波中学校1年の金城天彩さん(13)、與那覇瑞姫さん(13)が聞きました。

 《1930年5月16日に生まれた山根さんは、宮良国民学校(入学時は白良尋常小学校)に入学します》

 学校はかやぶきの教室が三つほどあるだけの青空教室でした。1年生の頃から「私たちは天皇陛下の赤子です、大きくなったら兵隊さんになります」と教えられました。子ども同士の遊びも、木で銃や剣を作って戦争ごっこをしていました。

 当時、学校には38式小銃という実際に戦争で使われた銃も置かれていました。その銃を使って学校で戦争の劇もしました。劇では負傷した日本兵を演じる友だちを担いで、君が代が流れて幕が閉じた記憶があります。

 5~6年生の頃から戦争に向けた訓練を受けました。アメリカのルーズベルト大統領やイギリスのチャーチル首相のわら人形を竹やりで突きました。20歳を迎えると、徴兵の身体検査を受けますが、合格して兵隊になることは日本男児として誉れだと思っていました。今では考えられないことです。

 《44年10月ごろ、石垣島では米軍による空襲が始まります。山根さんも米軍の空襲を見たと言います》

 ある日、飛行場のあった大浜(現在の石垣市大浜)に4機のグラマン(米軍機)が飛んで来て爆弾を落としました。子どもたちは、大きな花火みたいに爆発するのを見て、興奮していました。周りの人は日本軍の戦闘機だと思い「見事な演習だ」と言って手を振ったりしていました。グラマンが見えなくなってから空襲のサイレンが鳴って、日本軍の演習ではないと気付き、村の端にあった防空壕に急いで逃げました。

※続きは2月9日付紙面をご覧ください。