大江健三郎が見た沖縄と日本 日本人の沖縄認識を問う 辺野古に民主主義の希望


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名護市のキャンプ・シュワブゲート前を訪れる大江健三郎氏=2015年6月20日

 元沖縄県知事で鉄血勤皇隊の生き残りだった大田昌秀さんは沖縄戦を主要な研究テーマとした。自身の生を「血であがなった」ものと捉え、なぜ多くの学友が戦場で倒れなければならなかったかを追及し続けた。1982年の著書「総史沖縄戦」に大江健三郎さんが帯文を寄せている。

 「大田昌秀氏は、少年兵として沖縄戦をたたかい、傷ついて生き延びた時、その生が、まわりの数知れぬ死者の血にあがなわれたと、魂にきざんだ。(中略)氏が沖縄戦を再現する時、なお氏は傷ついた少年兵のままだ。その暗澹たる眼が、核状況下のわが国の軍事化を見すえている」

 「傷ついた少年兵」「暗澹たる眼」。悲惨な戦場体験を基に沖縄の将来を見据え、県知事にまでなった大田さんの本質を的確に言い当てた帯文だったと思う。

 そして大江さんは、沖縄を見つめ、本土との関係を厳しく論じ、未来を切り開こうとした作家だった。

印象が違う

 2015年6月20日、岩波書店と琉球新報の共催による講演で来県し、新基地建設が進む辺野古を訪れた大江さんが見たものは、新基地建設を強行する政府の計り知れない破壊行為のようなものだったであろう。

 この日朝、大江さんは洋上から新基地建設現場を視察した。工事が急速に進んでいることに衝撃を受けたのであろう。言葉少なで同行者に質問することもなかった。その中で記者に「実際見てみると印象が違った。透明度があって資源豊かな海に大規模な軍事基地建設の土台が造られようとしている」と語っている。

 その後、抗議行動の拠点であるテント小屋を訪ね市民を激励したが、かなり憔悴した様子であった。マイクを握ってあいさつすることもなくテントを離れた大江さんを非難する声が一部で上がったが、そのような気力は残っていなかったであろう。そのまま那覇のホテルに戻った大江さんは翌朝、脱水症状で体調を崩し、講演は延期された。

大きいショック

 大江さんは8月、「沖縄の若い人たちと話し合えなかった」のタイトルで本紙に寄稿した。体調を崩した経緯に触れながら辺野古を視察した時の心境を書き綴っている。

 「私はすでに幾度も訪れている辺野古の建設中の基地が、半永久的な、しかも最新の機構をそなえたものとして(私は報道の続いている県知事から市民たちの全体を動かしている反・基地の運動が実際的な成果をもたらしていると受けとめていました)姿を現わしつつあるのに大きいショックを受けていたのです」

 疲労とショックの中で大江さんはテント小屋で「この闘いをこちらが中止しなければ、ついには勝利する」という女性の力強い言葉を聞いている。励まされ、共感を抱いたであろう。市民に向かって穏やかな笑顔を浮かべる大江さんの写真が残っている。

 その年から既に8年が経過した。辺野古の海は大きく姿を変えた。報道で辺野古の状況を追っていたであろう大江さんは何を感じていただろうか。

大阪地裁に出廷

 大江さんは「琉球処分」から今日までの沖縄近現代史を見つめ、「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」と自らに問い、日本の責任を問い続けた。「沖縄ノート」(1970年刊)を貫く問題意識である。30年余を経て、大江さんが裁判を通じて沖縄と向き合うことになる。

 「沖縄ノート」における「集団自決」(強制集団死)の記述で座間味島元戦隊長と渡嘉敷島元戦隊長の遺族が大江さんと版元の岩波書店を訴えた裁判で大江さんは2007年11月、大阪地裁の法廷に立った。

 「集団自決」の記述をゆがめた高校生歴史教科書の検定問題が高まりを見せており、ノーベル賞作家の出廷は注目を集めた。法廷で「沖縄ノート」の命題について聴かれた大江さんは「戦後日本の繁栄に沖縄の犠牲があることを、自分を含む本土の日本人はよく認識していないと考えた」と答えている。

 原告の訴えを退けた08年2月の地裁判決を受けた、記者会見で大江さんは「沖縄戦の悲劇を忘れず、戦後の民主主義の教育をなかったことにすることはできない。今後も『沖縄ノート』に書いたことを主張し続ける」と述べた。

 沖縄の苦難の歴史に対する本土側の理解と関心の欠如。大江さんの出廷を通じて浮き彫りになったことだ。

将来の光明

 15年6月にいったん中止となった大江さんの講演はこの年11月に開催された。 講演は時折ユーモアを交え、和やかに進んだ。期待し、待ち望んでいたという県内大学生との対話もあった。講演や対話の中で幾度か「希望」という言葉を使った。憲法9条を「日本の文化」と捉える人々や、民主主義的な考えを主張する沖縄の新世代を「希望」と受け取った。

 辺野古で反対運動に参加している会場の参加者から「弾圧され、くじけそうになる時がある。どうすればよいか」と問われ、大江さんはこう答えている。

 「どうか続けてください。くじけそうだという人は自分の限界、ぎりぎりの部分に進んでいる。ぎりぎりのところまで来たと考えているときは一歩前へ進もうとしているのだ。諦め、放棄することは自分自身を放棄することにほかならない。だからこそ、ぎりぎりまで考えるということを私は最も大切なことと考えている。問題は解決しているといえないかもしれないが、一歩は進んでいる。もうちょっと、やってみてください」

 大江さんは、ぎりぎりのところで辺野古に希望を見たのではないかと思う。それは沖縄の希望であり、日本に民主主義を取り戻すための希望でもある。  (論説委員長・小那覇安剛)