先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)が19日に開幕する。サミットの国内開催は7年ぶり。各国首脳が世界課題を討議する重要イベントが開催地にもたらす恩恵や残したものは何か。琉球新報、北海道新聞、東京・中日新聞、中国新聞の連携企画として国内の歴代開催地の知事や知事経験者らに聞いた。1回目は2000年の沖縄サミット開催時に沖縄県知事を務めていた稲嶺恵一氏に聞く。
―九州・沖縄サミットは沖縄県にどういった恩恵をもたらしたか。
「恩恵ばかりだった。例えばかりゆしウエア。それまでは観光産業の人々くらいしか着ていなかったが、各国首脳に贈呈して着用してもらったことで知名度が上がった。その後、年に一度の政府の閣議でも着るようになった。各国首脳をはじめとした多くの関係者にふるまった泡盛を含めて地場産業が大きく育った」
「それにホテルもだ。サミット以前の沖縄のホテルは大勢の観光客が宿泊できるよう『量』を追い求めていた。しかし首脳が宿泊するということで急きょスイートルームをつくるなど対応に追われた。沖縄観光が量から質を追い求めるきっかけともなった」
―悪影響は。
「大規模な交通規制や警備など県民に負担を強いた面もあったが、トラブルはなかった。県民挙げて誘致したサミットということもあり、今でも県民の評価は高い」
―クリントン米大統領(当時)が平和祈念公園の平和の礎で演説をする際に、稲嶺氏自ら沖縄の基地問題について直接申し入れをした。だが基地問題の抜本的解決には至っていない。
「一国の大統領が県民に向けて基地問題に触れた演説をしたこと自体に大きな意義がある。歴史的評価は移ろうものだが、少なくともあの時期の県民は米軍最高司令官の演説を高く評価したことは確かだ」
―サミットの費用対効果はどう考えるか。
「費用対効果は絶大だ。県予算で各国首脳を迎える万国津梁館を建設したほか、国が空港から会場に直接つながるよう高速道路などを整備した。これらのインフラは今は観光振興に役立っている」
「一番大きかったのは軍事的要衝として『太平洋の要石』と言われていた沖縄が、ソフト面でも注目されたことだ。メディアも政治記者だけではなく、さまざまな分野の記者がやってくる。沖縄の豊かな自然や文化が世界に発信された。沖縄の印象が大きく変わった」
―今後、国内開催県がサミットで恩恵を受けるための方策は。
「沖縄サミットでは主要国首脳と各地の住民が直接交流した。例えばイギリスのブレア首相(当時)が学校で子どもたちにメッセージを発した。サミット後も交流事業が続いていた。しかし翌年に発生した米同時多発テロから風向きが変わった。要人警護と住民交流のバランスは難しい課題だ」
「ただ、来訪者が住民と交流せずに、クローズされた空間のみでサミットを開催したとしたら、開催県としてはただ単に場所を提供しただけで恩恵も少ない。難しい状況もあるが、行事や特産物などを通じた住民との触れあいは必要だと思う」
(聞き手 琉球新報・梅田正覚)
九州・沖縄サミット
日本初の地方都市開催となった。G7にロシアを加えた主要8カ国の首脳会合は2000年7月21日~23日、沖縄県名護市の万国津梁館で開かれた。サミットで世界から注目が集まる中、沖縄が国際的なリゾート地へと発展していく契機となった。
一方、首脳会合の前日には米軍嘉手納基地を県内外から訪れた2万7千人が包囲する「人間の鎖」が行われ、基地問題の解決を世界に訴えた。クリントン米大統領(当時)は糸満市の平和の礎で県民向けに演説し、米軍基地について「われわれの足跡を減らすため、できるだけの努力をする」と述べた。
サミットではIT機会の万人への提供を呼びかける「沖縄憲章」が採択されたほか、感染症対策、遺伝子組み換え食品の安全性、紛争予防、核軍縮の進展、ミサイル拡散抑制など多くの懸案についての共同宣言が発せられた。 会合前には各国首脳が県内市町村を訪ね、住民と触れあう機会も設けられた。サミットを記念して守礼門が描かれた2千円札が発行された。
〈用語〉G7サミットとは
先進7カ国(G7)が持ち回り開催する首脳会議。1975年に開始。当初は日本、米国、英国、フランス、西ドイツ、イタリアの枠組みで、76年にカナダが入った。冷戦終結後の97年から加わったロシアは、ウクライナ南部クリミア半島を2014年に併合したため排除された。日本開催は79年、86年、93年が東京都、2000年が沖縄県、08年は北海道、16年が三重県。広島サミットは5月19~21日に開かれ、日本、米国、英国、フランス、ドイツ、イタリア、カナダに欧州連合(EU)が加わり、ウクライナ情勢や世界経済、新興・途上国への支援拡大など幅広いテーマで議論する。