1950年代の愛楽園 鈴木陽子(沖縄愛楽園交流会館学芸員)<未来へいっぽにほ>


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鈴木陽子

 5月の連休が終わると沖縄戦について学ぶ機会が増えます。愛楽園の沖縄戦が話題になることは多くありませんが、愛楽園も沖縄戦の影響が長く続きました。園には、ハンセン病を発症し、隔離された愛楽園で沖縄戦を体験した人も、壊滅状態の園に米軍によって隔離収容された人もいます。台湾や県外の療養所から愛楽園に引き揚げてきた人も、戦後、発症者が増えたハンセン病患者の強制収容で入所した人もいます。1950年代、定員750人の愛楽園には950人以上の人々が暮らし、子どもも多い時には80人ほどいました。

 隔離療養といいながら、愛楽園は医療も衣食住もすべてが大幅に不足しました。入所者は自治組織「共愛会」をつくり、自らの手で園を復興・運営し、子どもたちのために校舎を建てました。入所者が先生になって子どもたちに勉強を教え、子どもたちは作文を書き、短歌なども作っています。

 また治療薬プロミンの使用が始まるなかで、入所者たちは子どもたちに園外の子どもと同等の教育を受けさせたいと願い、近くの学校の分校を園内に設置するよう要請しました。その願いは却下されましたが、1951年、政府立の澄井小中学校が開校します。先生が政府から任命され、子どもたちも園外の学校と同等の勉強ができると喜びました。

 しかし、毎日頭から足の先まで白い予防着で身を固めた先生の姿を目の前にして、子どもたちは自然に「自分は恐ろしい病気だ」と思うようになりました。コロナ禍でマスク着用が習慣化した今だからこそ、病気だから仕方がないと諦めさせられ、予防着姿に傷ついた子どものことを考えたいのです。