大いなる航海の始まり 3年半ぶり、沖縄へ一人旅 河瀬直美エッセー<とうとがなし>(2)


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慶良間諸島での時間や当時の想いを閉じ込めた8ミリフィルム。自分自身を映画の道へ推し進めてくれた大切な未公開作品

 海邦国体から3年半後の1991年3月、高校卒業後に映画の専門学校で映像制作のノウハウを学んだ私は、東芝関連の映像制作会社に勤める社会人になっていた。

 海邦国体には、バスケットボールの高校選抜奈良県代表として出場した。宜野湾の体育館で現役最後の試合の最中、私は溢(あふ)れる涙を止めることができずにいた。一刻一刻と過ぎ去る時間。現役最後の試合が終わってゆく。時間を止めることができない無常。その試合は残り時間を考えれば、いくら足掻(あが)いても勝つことが難しいほど点数がひらいていた。あと1分、あと30秒。無情にも時間は過ぎてゆく。泣いている私を見て監督は「負け試合で泣くな!」と一喝したが、負けて泣いているのではなかった。この愛(いと)おしい時間が過ぎ去るのを止めることができない無常に圧倒されていたのだ。

 その半年後、私は映像制作と出会うことになる。映像は「今」を切り取り、未来に繋(つな)げてゆける、もしくは、終わってしまった過去をいつでも呼び起こせるタイムマシーンのようだ。それに気づいた時は、一生を捧(ささ)げるに値する天職を手に入れた歓(よろこ)びの瞬間だった。

 東芝関連の映像制作会社での日々はバブル経済も手伝って、とても有意義で満たされていた。けれども、きちんと作品を制作、納品していれば可もなく不可もなく時間は過ぎてゆく。それをいつまで続けていればいいのだろうという漠然とした焦りのような感情が生まれ出し、居ても立ってもいられない頃、思い立って沖縄への一人旅を計画した。

 海邦国体以来3年半ぶりの沖縄への旅。宮城さん宅のちびっ子達も大きくなっているんだろうなとワクワクする気持ちを胸に訪れた。快く宿泊させてくれた懐かしい宮城家で二十歳を過ぎた私にお母さんの美智子さんは泡盛を飲ませてくれた。初めて飲む泡盛がとても美味しいと想ったことを覚えている。そして、自分が今悩んでいるこれから先の人生のこと。やりたいこと。映画監督になりたいという夢。美智子さんは私の話を真摯(しんし)に聞き取ってくれた。そうして近くの港から慶良間諸島にフェリーが出ているから、それで一日ゆっくり島巡りをしてみたらどうかと提案してくれた。

 翌日、泊港まで送ってもらい、朝一番の船で渡嘉敷島へ向かう。そして誰もいない白い砂浜と慶良間ブルーの海を見つめながら、静かに深く自身の心と向き合った。最終の船までの時間、私の意思はほとんど決まっていた。0点か100点か、いやマイナスの評価を受けるかもしれない表現の世界。会社が守ってくれる訳ではない「河瀬直美」そのもので勝負すること。それは、大海原に放り出されて小さな光る石を探すようなとてつもない冒険の始まりだ。それでも、二十歳の私は私の未来を自らが制限することを止めようと決心していた。そう思えたのはきっと沖縄の海と空が大いなる航海の始まりを後押ししてくれたからに他ならない。こうして私は映画監督への道を歩み始めた。

(映画作家)