島豆腐、日本復帰で一時“非合法”も 食べ続けた「あちこーこー」〈豆腐と世替わり・上〉


この記事を書いた人 琉球新報社
あちこーこーの島豆腐を店頭に陳列する豆腐製造業者の従業員=12日、那覇市のタウンプラザかねひで・にしのまち市場

 「ここは豆腐屋さんがいくつも並んでいたよ」。那覇市の栄町市場で、「シマ豆腐紀行」の著者である宮里千里さん(73)が指し示した。「豆腐ロード」と呼ばれていた場所には、かつて4、5軒の豆腐屋がひしめいていた。朝から夕方まで「あちこーこー(熱々)豆腐」を買い求める常連客が押し寄せたという。1970~80年代にかけてスーパーが県内各地に登場し、市場の豆腐屋は姿を消したが、今もスーパーではあちこーこー豆腐は人気を集める。

 ■日本の食品衛生法の適用、水さらしが義務付けに

 県民のソウルフード「島豆腐」は、世替わりに翻弄(ほんろう)されてきた。

 1972年5月15日の日本復帰に伴い、本土の法律「食品衛生法」が適用され、島豆腐は水にさらして販売することが義務づけられた。「あちこーこー」で売ることが、法律上できなくなり、100カ所以上が店を閉めた。

 島豆腐は戦後、女性たちが各家庭で食べる分を作って近隣住民との物々交換から路上売りの商売に発展していった。できたてで「あちこーこー」で食べることは「息をするように当たり前だった」(宮里さん)。

 ■立ち上がった豆腐業者、国を動かす

 立ち上がったのは、県豆腐油揚商工組合の前身に当たる沖縄豆腐加工業組合を1965年に創設した理事長の砂川幸一さん(故人)。当時の沖縄は貯水ダムが少なく水不足で断水が相次ぎ、水にさらすのが困難な状況だった。また、小規模な豆腐業者が多く、高額な冷蔵設備を買うことも厳しかった。島豆腐の存続の危機に砂川さんらは何度も上京して国に訴え続けた。

「あちこーこー」島豆腐と世替わりについて語る宮里千里さん=9日、那覇市字安里のコーヒーポトホト

 74年に特例が認められるまでの2年間、一部の水面下では「あちこーこー」で食べ続けられ〝非合法〟の時期もあったが、「ひたすら作り続け、食べ続けたから認められた」(宮里さん)側面がある。

 豆腐屋の数は減ったが、沖縄の島豆腐は今も県民に愛され続け、豆腐の消費量は全国1位だ。

 昭和、平成と「食品衛生法適用」の危機を乗り越え、約50年にわたり「あちこーこー」が守られ続けた島豆腐。しかし令和に入り、新たな国際的な衛生管理が法的に義務付けられることになった。宮里さん流に言えば「第二の黒船の到来」。島豆腐は再び危機に直面している。

(慶田城七瀬)

 

 〈用語〉島豆腐

 沖縄の豆腐は、大豆をひいておからと豆乳に分けた後に豆乳を煮る「生しぼり製法」で作られる。本土の木綿豆腐より水分が少なく、固くて栄養価も高い。食品成分表では本土の木綿豆腐と区別して「沖縄豆腐」とされている。