<未来に伝える沖縄戦>学校に空襲 壕で爆弾逃れる 仲村和子さん


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 大阪府で生まれた仲村和子さん(91)(旧姓桑江)は、県立第一高等女学校に進学するため両親の故郷である国頭村に帰ってきました。進学後、米軍の本島上陸が迫る3月末に国頭に戻り、山の中で避難を続けます。仲村さんの話を北中城中学校3年の安里和さん(14)と比嘉璃子さん(14)が聞きました。

    ■ ■ ■

沖縄戦の体験を語る仲村和子さん=4月27日、北中城村瑞慶覧(大城直也撮影)

 《仲村さんは1931年11月16日に大阪府大阪市で桑江家の長女として生まれました。県立第一高等女学校への進学のために沖縄に帰郷しました。入学してからは戦時体制が敷かれていたため、たくさんの訓練や陣地構築作業が待ち受けていました》

 父の桑江良勝は仕事の都合があったので大阪に残り、母のマヅルと共に41年ごろに沖縄に帰ってきました。国頭村の安波国民学校に転校し、43年に県立第一高等女学校を受験し、合格できました。戦争の気配は色濃くなっていて、やがて沖縄も戦場になるのだろうと予想していました。

 しかし、あちらこちらで耳に入ってくる話は「日本は勝っている」「負けることを知らない神の国だから」といった、日本の圧倒的強さを誇るものばかりでした。今思えば、米国のような大国相手によくもと思いますが、そのころは日本は強いから負けるわけはないと信じていました。

 体育の授業では米国大統領の似顔絵をわら人形に貼り付け、50メートル先から走ってなぎなたで突く訓練もありました。花壇をつぶして1メートルくらいの穴を掘り、空襲警報のサイレンがなると耳と目を押さえて一気に飛び込むこともありました。水がたまっていることもあり、ずぶぬれにもよくなりましたが、皆ふざけることなく真剣そのものでした。1日おきに陣地壕を掘るための作業もありました。

 《44年10月10日、米軍の艦載機が沖縄の軍事施設から住宅まで無差別に爆撃と機銃掃射を加えました。(10・10空襲)》

 安里にある寮で朝食を取っていた時でした。米軍機来襲のサイレンが響きわたりました。現在の安里バイパスの下が暗きょだったので、そこに隠れました。15分おきに敵機が3機編隊で飛んでいく様子が見えました。那覇の方面を見渡すと、見る見るうちに炎が燃え広がっており、ぶるぶる震えました。あまりにも恐ろしい光景でした。

 それから何日おきかに敵機からの空襲がありました。学校には日本軍(球部隊)が駐屯していたので、米国もよく分かっていたのだと思います。1月22日から23日の空襲では、ごう音を立てながら低空飛行で爆弾を投下しました。爆弾が落ちた場所の近くにいた人は伏せて助かったのですが、少し離れていた場所から「皆伏せろ」と叫んだ中隊長は破片が当たり、首がそのまま吹っ飛んでしまいました。しばらく首がないまま立った状態で、そのまま倒れました。私たちが隠れていた壕に隊長の耳や指先のようなものが飛んできたので、皆で恐怖のあまり「母ちゃん、母ちゃん、怖い怖い」と大泣きしたのを覚えています。

 

※続きは5月23日付紙面をご覧ください。